樽の中のワイン(集団的無責任)

哲学

「樽の中のワイン」という面白い寓話があります。
山奥のユダヤ人の村に、新しいラビ(ユダヤ教の宗教指導者)が着任することになり、村人たちは祝いの宴を開くことにしました。教会の中庭に空の樽を用意し、前日までに村人それぞれが一瓶分のワインを樽の中に注ぎ入れておくことにしました。
宴の当日までに樽はいっぱいになり、祝いの宴が始まりましたが、どういう訳か樽から注いだ液体はまったくワインの味がせず、まるで水のようでした。
長老たちは新任のラビの手前、戸惑い恥じ入ります。宴は気まずい空気に包まれました。
実際には、各家庭は「自分だけ水を入れても、他の皆がワインを入れるからバレないだろう」と考え、樽に水を入れた訳です。

まとめ
1.メンバーが多い程、責任は希薄化する
2.匿名性と多数分散がワインを水にする
3.社会的地位が脅かされないことは道徳に優先する

結論
真の意味で陰徳などない。必ず打算がある。

1.メンバーが多い程、責任は希薄化する

この寓話は思考実験としても興味深いです。この村の規模は不明ですが、100戸の村と10戸の村では、村人のビヘイビアは異なると思います。
100戸であれば、自分だけ誤魔化してもバレないと考える人は多いでしょう。10戸しかない場合は、自分に疑いが掛かる確率が跳ね上げりますので、誤魔化そうとする意欲は減退します。2戸しかない場合は、相手が誤魔化したかどうかすぐに分かってしまいます。
メンバーが多い程、自分の悪事が露見するリスクは小さくなりますので、責任感は希薄化してしまいます。
この心理状況は、「赤信号、皆で渡れば怖くない」といった状況にも似通っています。全員が違反をしているという自覚はあるのですが、人数が多いと自分だけが責任を取らされるという意識が希薄化してしまいます。
「樽の中のワイン」が水にならないようにするには、責任の希薄化が起きないようにする必要があります。例えば、100戸を10班にわけ、班ごとに専用の樽を10個用意してワインを入れさせることが考えられます。

2.匿名性と多数分散がワインを水にする

集団的無責任は、数が多い場合でも発生しますが、もう一つ重要な要素は匿名性です。
「樽の中のワイン」の場合は、村人全員が顔見知りだと思われるので、まだ無責任は発生しづらいと思いますが、SNS等のネット上の辛辣な個人攻撃は、実名を隠して行われる為に先鋭化します。実名が突き止められてリアルに反撃されるリスクが無いからです。
匿名でも少人数だと実名が特定される可能性がありますので、匿名性の確保と多数分散が両方起こった時に無責任な発言は頻発するようになります。
責任感含めて人間の感情や道徳は、村社会で結束して外敵を防ぎ円滑に運営していく為に進化の過程で編み出したものなので、基本的に顔見知りであることがベースにあります。つまりダンバー数以内です。
SNS等のネット上で参加者が何万人規模になってしまうと、顔見知りの間で通用した道徳のリミットを超えて、道徳も希薄化してしまいます。

3.社会的地位が脅かされないことは道徳に優先する

いつの時代にも苛めはありますが、不変なのは、苛める側に自分は多数派だという確信があることです。可める側の方が少数派ということはありません。
苛める側には通常は中心人物がおり、大体が強者ですが、強者に忖度をする取り巻きがいて、更にその周辺に面倒くさがりの多くの無党派層がおり、何となく中心人物に迎合している状態が多いです。無党派層は苛めを見て見ぬふりをしますので、見かけ上裾野の広い多数派が形成されます。
多数派に属するのは、その方が社会的地位を維持しやすいからです。苛める側は、裏切りに厳しい対処をするので、苛める側から脱退することは自らの社会的地位を脅かす行為になります。勿論、道徳上、苛めは良くないことは無党派層も全員理解しています。保身は道徳を軽々と超越します。
自分も含めて、人間はやっぱり動物であり、悲しい程に打算的だと思います。真の意味で陰徳などないと思います。必ず打算があります。陰徳には、誰かにこっそり伝わることを期待する打算があり、人間が見ていなくても、神仏が見ていると意識すること自体が打算的です。死後の天国極楽行きを期待しているからです。

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