「人間とは何か?」は、「トム・ソーヤーの冒険」で有名なアメリカの文豪マーク・トウェインが、死の四年前に匿名で遣した作品です。
「トム・ソーヤーの冒険」と同じ作者の作品とは思えない衝撃の内容でした。冒頭から「人間とは機械である」というぶっ飛んだ主張が展開されます。あまりに作風が異なっており、匿名で出版したのも頷けます。
老人と青年の会話形式で話が展開しますが、その点では哲学者と青年との対話形式でアドラー心理学をわかりやすく解説したベストセラー「嫌われる勇気」と似ています。
1.マーク・トウェインという人物
マーク・トウェインはペンネームです。アメリカ南部出身で、若い頃には蒸気船の水先人として働いていました。「マーク・トウェイン」は、川を蒸気船が航行する際の測深手の水先人への合図”by the mark,twain”(日本語では「水深二尋」)から採ったそうです。
その後、新聞記者として働き、作品を発表するようになり、「トム・ソーヤーの冒険」で大ベストセラー作家になりました。
但し、その後の浪費や投資の失敗で破産も経験しています。多額の借金も抱えましたが、講演活動や作品の出版によって完済し再び資産家になりました。結婚して一男三女をもうけましたが、次女以外には先立たれています。
当初は「トム・ソーヤーの冒険」のようなユーモアに富んだ冒険物語を書いていましたが、晩年には悲観的な方向に流れていきました。波乱万丈な人生が影響しているのかも知れません。晩年の世界観を象徴する作品が「人間とは何か?」だと云われています。
2.人間とは機械である
「人間とは何か?」の論旨をひとことで言えば、「人間とは機械である」ということです。
主人公の老人にいろいろと語らせています。人間も動物も機械であり、人間にも動物にも真にオリジナルな物など作ることはできないということ、全ては昔からのコピーの累積であること、人間が自由意志と錯覚しているものは自由選択に過ぎないこと、人間の行動の根本原理は精神を満足させたい衝動であること等です。
老人は、倫理や自己犠牲といった美徳を信じている青年を相手に、美徳とされる行動は自分自身の精神を満足させたい衝動に衝き動かされた結果に過ぎないと反論し、事例を交えて辛辣に目つ舌鋒鋭く次々と論破していきます。
老人によると、シェイクスピアも機械なので何一つ創造していません。シェイクスピアは特別なゴブラン織りの織機であり、全ての糸と全ての色は彼の外部からもたらされ、自動的に豪華な織物(文学作品)を作り出したと主張します。
また、貧しい老婆に施しを与えた男の事例も出てきます。老婆を助けたのは、自分の心の痛みに耐えられなかったからで、良心の責め苦から解放される為にしただけだと老人は主張します。あくまでも自分自身の精神を満足させることが目的であり、老婆の苦難を救ったことは副次的な結果です。人間は心の平和、精神の慰安を確保するというたった一つのことしかしていないという訳です。我々人間は、他人の苦痛が自分を不愉快にさせない限り他人の苦痛には完全に無関心だとも述べています。このように痛快とも言えるテンポで次々と美徳を否定していきます。
3.内なる主人に従属する人間
人間の行動の根本原理は精神を満足させたい衝動であり、これこそが人間の内なる主人です。人間は機械ですので、自由意志は存在せず、内なる主人の命ずるままに動きます。
内なる主人たる衝動に機械的に従う人間ですが、この内なる主人こそ、生まれつきの気質や数えきれない外部からの影響力や鍛錬などの蓄積によって作られると老人は云います。
気質は遺伝によって決まってしまいますが、それが全てではありません。外部からの影響力や鍛錬の影響も多分に受けるからです。本書において、唯一ここに希望があると思います。
作品のなかで、老人は訓戒を述べています。理想とする目標を一生懸命鍛錬せよと。その頂上に達したら最高の喜びを見つけ出すことができる。何故なら、その行為から自分自身の満足が得られる一方で、周囲の人々にも様々な恩恵をもたらすからだと。
周囲の人々が喜んでくれるのが嬉しいというのは、精神を満足させたい衝動という人間の根本原理と何ら矛盾しません。
17世紀フランスの貴族でモデリストのラ・ロシュフコーは、「我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳にすぎない」という有名な箴言を残していますが、美徳的行動による賛美を期待するのではなく、自分の精神を満足させるべく行動した結果、周囲の皆が喜んでくれたので余計に嬉しく感じたという方が、自分自身を欺かない生き方だと思います。