「私」とは何か

哲学

アメリカの神経科学者マイケル・ガザニガは、認知神経科学の創始者とも言われています。彼の最も有名な研究は、分離脳症患者に対するものです。これらの患者は、重症のてんかんの治療の一環として、左右の大脳半球をつなぐ脳梁が手術で切断されています。こうした研究の結果、脳はモジュールの組合せによる並列処理器官であることが分かってきました。彼の研究は、「私」とは一体何なのかについても大きな影響を与えました。

まとめ
1.脳はモジュールの組合せによる並列処理器官
2.左脳のインタープリターモジュール(解釈装置)がストーリーを作る
3.脳の後付け解釈が意識であり、意識の連続が私の正体
結論
私という実体は無く、人間には自由意志は無い。

1.脳はモジュールの組合せによる並列処理器官

様々な研究によって、人間の脳は、左右の半球に分かれており、各半球はそれぞれ異なる機能を果たすことが分かってきました。
右脳と左脳の中身も様々な機能に分かれており、脳はモジュールの組合せによる並列処理器官であると言われています。つまり、脳内システムの各モジュールがそれぞれ連動しつつ活動をしているのですが、主導者、乃至は司令塔がいない状況ということです。各モジュールは司令塔からの指示で統一的に動いている訳ではないようです。司令塔が無いとすると、主体的な「私」という感覚はどうしてあるのでしょうか?

2.左脳のインタープリターモジュール(解釈装置)がストーリーを作る

右視野は左脳、左視野は右脳が担当しているとされています。マイケル・ガザニガは、分離脳症患者に対して絵を使った興味深い実験をしました。
まず「ニワトリの足の絵」と「雪景色」の絵を用意します。
右目即ち左脳にだけ「ニワトリの足」を見せ、左目即ち右脳にだけ「雪景色」を見せます。続いて前に見た絵と関連するものを患者に選んでもらいます。
すると、右手はニワトリの絵を指差しました。左手は(雪景色に関連する)ショベルの絵を指差しました。更に、それらの絵を選んだ理由について話してもらいました。
右手でニワトリの絵を指差したことについては、「簡単なことです。ニワトリの足だからニワトリにしました。」と答えましたが、左手でショベルの絵を指差していることについては、「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね」と即答しました。
つまり左脳は、なぜ左手(右脳)がショベルを選んだのかわからないまま、無理やり理由を作ってしまった訳です。本当は雪景色を見たからショベルを選んだ筈です。
別の実験もあります。
分離脳症患者の右脳(左視野)だけに「立ち上がってください」という指示を伝えます。
患者は言われた通りに立ち上がりましたが、その後患者に立ち上がった理由を尋ねると「ちょっと水分を取りたかったからです」と答えたというのです。
つまり、患者の左脳は、立ち上がるという行動の真の理由(指示に従った)を認識していなかったため、辻褄の合うストーリーを捏造することで情報の不一致を埋めようとした訳です。知り得た情報から合理的なストーリーを作っているのは、左脳のインタープリターモジュール(解釈装置)と言われています。

3.脳の後付け解釈が意識であり、意識の連続が私の正体

上述の実験結果は、人間の自由意志について重大な意味を持ちます。
我々人間は、「私の自由意志により、行動を起こした」と考えていますが、実際には「無意識で行動した結果を私の自由意志として統合し解釈している」ことになってしまうからです。
社会性の獲得を武器にチームワークで過酷な生存競争を生き延びてきた人類は、私(自我)と他者との膨大な情報を整理し、アルゴリズムに反映する必要がありました。
実際には、脳内モジュールの組合せによる並列処理の結果として起こる行動を、「私」を結節点とする情報として解釈し、記憶として整理したのではないでしょうか。
記憶の蓄積を未来の行動に反映し、生存確率を上げたのかもしれません。
「私が火に触れたら熱くて手を引っ込めた」という情報は、今後は火には直接触れないという行動に繋がります。「熱くて手を引っ込めた」のは無意識での脊髄反射的行動であり、自由意志による熟慮の結果ではありません。
「私」という実体は無く、人間には自由意志は無いとするならば、今の自分の状況も因果的決定論による必然的な結果とも言えます。
自責の念も、未来の行動を改善する為には意味がありますが、過去についてひたすら煩悶するのであれば、無意味です。もし「私」も自由意志も存在しないなら、貴方のせいではありません。

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