鯨と豚の境界線

哲学

英国の小説家サミュエル・バトラーは「食する為に養っている動物と仲良くできる動物は人間だけだ」という言葉を残しました。人間は家畜である牛・馬・豚・羊・鶏と仲良くもしますが、食べることもします。現在では社会的分業が進んだことで、殆どの人間には家畜を屠殺した経験がありませんが、昔は自分で屠殺して自分で食べることも多かったことでしょう。
人間は家畜だけでなく野生の動物も食べてきました。鯨もそうです。日本は捕鯨問題で国際的に非難されることも多いですが、アメリカもかつては捕鯨をしていました。ペリーが来航した目的の一つは、捕鯨船の補給基地の確保だったとも言われます。
鯨も豚も哺乳類ですが、捕鯨はダメで養豚は良い理由は何でしょうか。

まとめ
1.動物の権利の境界線は理性か苦痛による
2.輪廻転生を信じるかによっても動物への扱いは異なる
3.一神教的世界観とアニミズム的世界観は動物に対して対極的

結論
アニミズム的世界観の方がサステナブル。

1.動物の権利の境界線は理性か苦痛による

捕鯨が非難される理由は幾つかあるようですが、鯨の知能が高く、感情豊かな生物とされている点もその一つです。
フランスの哲学者デカルトは、動物は精神を持たず考える事も苦痛を感じる事もない為、動物に対してどんなにひどい扱いをしようが構わないと主張しました。
ドイツの哲学者カントは、動物は人格ではなく物であり単なる手段として使ってかまわないが、動物を残虐に扱う習慣は、他の人間に対しても冷酷に振る舞う行動に繋がってしまうため慎むべきであると主張しました。
イギリスの哲学者ベンサムは、動物の苦痛は人間の苦痛と同じくらい確かで類似したものであり、理性があるかどうかではなく、苦しむかどうかということこそが、我々が人間以外の存在を扱う際の基準であるべきだと主張しました。また、理性的能力が基準となるのであれば、赤ん坊など多くの人間が物の様に扱われることにならなければならないと論じました。西洋の哲学者の主張を概観すると、大きく分けて、理性があるかどうかという判断軸と、人間同様に苦痛を感じるかどうかという判断軸があることが分かります。

2.輪廻転生を信じるかによっても動物への扱いは異なる

三平方の定理でお馴染みのギリシャの哲学者・数学者ピタゴラスは、輪廻転生を信じていた為、動物にも敬意を払うべきだと主張しました。
輪廻転生が正しいとすると、人間が死んだ後に何に転生するか分からないことになります。当然、家畜である豚に転生する可能性もあります。
輪廻転生が信じられているヒンドゥー教では、牛は破壊神シヴァの乗り物であるとされており、神聖な動物として崇拝されています。そのため、牛を殺すことも食べることも禁忌となっています。但し、ヒンドゥー教で神聖視されているのは、南アジアを中心に分布する乳白色の瘤牛のみであり、真っ黒な水牛はその限りではないようです。何れにしても、動物の扱いに関して西洋と異なる判断軸が存在するのは確かでしょう。

3.一神教的世界観とアニミズム的世界観は動物に対して対極的

一神教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教においては、旧約聖書にあるように神は人間を自身の形に創造したとされ、人間は他の全ての生物とは異なる特別な存在として位置付けられています。その影響を受けている西洋哲学における論調も、「人間同様に理性的か」、乃至は「人間同様に苦痛を感じるか」が判断軸となっています。つまり人間中心主義です。一神教の対極にあるのが、アニミズムです。アニミズムは、生物や無機物を問わず、全てのものの中に霊魂が宿っているという考え方を指します。この世界観では、人間、動物、植物、天体などの万物に霊魂が宿るとされます。
日本でも八百万の神がいるといわれ、山や岩などをご神体にしている例もあります。他にもアイヌ信仰、ケルト信仰、イヌイット文化などがあります。アイヌ民族にとって、動物は狩りの獲物であり、食物であり、衣類であり、且つ神の象徴としても存在しています。自然への畏怖と敬意が感じられます。
一神教的な世界観では、人間は世界の霊長で動物は単なる物であり手段、自然は征服する対象となりがちです。この世界観と資本主義が結合すると環境破壊、気候変動、地球温暖化が起こります。資本主義は資本の自己増殖が行動原理なので、無軌道な環境破壊が起こります。
アニミズム的世界観では、動物、植物、無機物を問わず、全てのものの中に霊魂が宿るという考え方ですので、人間と自然の立場は平等です。自然は征服対象ではなく、共存するものです。
西洋の幾何学的な庭園と、日本の自然を活かした庭園を比較すれば、世界観の違いは明らかです。どちらの世界観がサステナブルかは推して知るべしでしょう。

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