人間の終焉(ミシェル・フーコー)

哲学

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう」という有名な言葉を残しています。
勿論、人類滅亡のことを云っているのではありません。フーコーは、「人間」は普遍的な存在ではなく、特定の歴史的状況の中で形成された概念であると主張していますが、18世紀以前は「人間」は存在せず、つい最近形成された概念であり、尚且つ近い将来において消滅すると予言している訳です。
フーコーによれば、西欧の思想史を概観すると、ある時代内において共通する思考の枠組みがあり、人間の思考はそれに支配され、その思考の枠組のなかでしか事物を捉えることができないと云います。その思考の枠組みのことを「エピステーメー」と名付けました。
西欧の「エピステーメー」は、中世から現代にかけて「類似」「表象」「人間」の順に推移したとされます。この「人間」が消滅するということのようですが、難解ですね。尚、「人間」の次の工ピステーメーは不明です。どういうことなのか気になるので調べてみました。

まとめ
1.中世からルネサンスのエピステーメー「類似」
2.古典主義時代のエピステーメー「表象」
3.近代のエピステーメー「人間」

結論
人間は実は主体ではないことがばれ始めている。
(主体:自覚や意志を持ち、動作・作用を他に及ぼす存在としての人間)

1.中世からルネサンスのエピステーメー「類似」

中世からルネサンスのエピステーメー(〜16世紀)は「類似」がキーワードです。この時代では、頭蓋骨や脳と類似したクルミが頭部の病気に効くとされ、眼球の構造に似たトリカブト種子が眼病に効くと考えられていました。全く理解不能ですが、中世の人々と我々ではエピステーメーが違うので仕方がありません。
また、現実(物)と虚構(言葉)が区別されない点も特徴的です。この時代の書物では、蛇と竜など、観察に基づいた生態学的記述と、幻獣や奇蹟などの神話に関する話題が、同列に記述されていました。
セルバンテスの「ドン・キホーテ」では、中世の騎士道物語に心酔する主人公ドン・キホーテが、風車を巨人に、畜群を軍勢などと同一視してしまうシーンがありますが、これも「類似」です。次のエピステーメーの時代の視点で、中世のエピステーメーの世界に生きるドン・キホーテを時代錯誤で滑稽な人間として描いています。

2.古典主義時代のエピステーメー「表象」

古典主義時代のエビステーメー(17世紀〜18世紀)のキーワードは「表象」です。表象とは、心の中に現れるイメージや概念です。
中世のような「類似」ではなく、同一性と相違性をベースとした比較によって、事物の秩序を形成しました。合理的に作られた秩序に基づいて表のような平面的な空間に理路整然と事物を分類していきます。この時代のエピステーメーを解明するに当たって、重要になってくる三つの学問が、「博物学」「一般文法」「富の学問」です。
博物学:中世までは観察と神話が同列に扱われていましたが、神話は排除され観察に基づいた記述が中心となります。精細な観察によって得られた「表象」によって分類していきます。
一般文法:物と言葉が分離した結果、言語のみを対象とした学問が可能となります。
富の理論:中世までは貨幣の価値は貨幣そのものにありました。つまり金貨の価値は金の希少性や美しさが生じさせていました。古典主義時代になると貨幣の価値は実在から分離して表象となり、市場での交換を通して決定すると考えられるようになります。金貨が貴重なのはそれが希少性のある金だからでなく、市場で交換可能な貨幣だからという訳です。

3.近代のエピステーメー「人間」

近代のエピステーメー(19世紀以降)は「人間」がキーワードです。
分離した物と言葉の間に「人間」が割り込んできます。人間中心主義が、三つの学問にも変質をもたらします。
博物学⇒生物学:生物の形体的な特徴の観察による博物学から生命の概念が導入された生物学に変化しました。人間の身体器官も形体的に見ることのできない生命という働きを構成する機能として捉え直されます。
一般文法⇒言語学:単なる文法だけでなく、人間同士の間のコミュニケーションを主題とする言語学が発展します。
富の理論⇒経済学:人間の労働の概念が導入され、商品の価値を決定するのは投入された労働量(労働価値説)であることをベースに経済学が誕生します。
然しながら、人間を主体とするエピステーメーも消えつつあるとフーコーは云います。フロイトの精神分析によって無意識の存在が明らかになり、レヴィ・ストロースの文化人類学によって構造主義が唱えられ、人間も深層にある普遍的な構造によって動かされていることが明らかになってきました。人間が自由意志を持ち、意識的で自立的な存在であることが怪しくなってきてしまった訳です。ベンジャミン・リベットの実験によって、人間には自由意志が無い可能性も高まっています。そうなると事物の説明に人間は不要になります。
人間は実は主体ではないことがばれ始めており、新しいエピステーメーはそのことを前提に構築されるのかも知れません。

タイトルとURLをコピーしました