ソマティック・マーカー仮説は、意思決定プロセスにおいて、情動的な身体反応(ソマティック・マーカー)が重要な役割を果たすとする理論です。この仮説は、神経科学者アントニオ・ダマシオによって提唱されました。
例えば、ポーカーのゲームにおいて、プレイヤーが手札を見たとき、良いカードが来たときは心拍数が上がり、悪いカードが来たときは心拍数が下がります。この身体反応が、次にどのような行動を取るべきかの判断に影響を与えます。
別の例としては食事があります。過去に食べた食事で体調を崩した経験があると、その食事を見ただけで胃がムカムカするなどの身体反応が起こります。この身体反応が、その食事を選ばないという意思決定に影響を与えます。
1.人間の人格は前頭葉で決まる
アントニオ・ダマシオは、主著「デカルトの誤り」のなかで、前頭前野に損傷のある患者について言及しています。彼は鉄道工事中の事故で鉄の棒が左頬から頭部を突き抜ける重傷を負いました。驚くべきことに事故からは生還しましたが、その後の彼の性格は大きく変わってしまったそうです。以前は模範的市民だったのに、事故後は社会的習慣を軽蔑し、責任を無視するようになってしまいました。この事例は、前頭葉が人格形成に重要な役割を果たしていることを示しています。
ダマシオは、この患者の研究を通じて、感情が理性的な意思決定に重要であることを示しました。感情的な反応を経験する能力を失った結果、日常生活の中で最善の選択をする能力を損なったということです。どういうことでしょうか。
2.ソマティック・マーカー(身体反応)が行動に影響を与える
ソマティック・マーカー仮説によれば、我々は過去の経験に基づいて、特定の選択肢に対して肯定的または否定的な身体感覚を結びつけます。これらの感覚は、意識的には認識されないこともありますが、選択肢の利益とリスクを迅速に評価する為の重要な情報を提供します。例えば暗い路地に入ろうとしたとき、何か危険を感じて心拍数が上がり、このソマティック・マーカーが、その路地に入らないという意思決定に影響を与える訳です。
このソマティック・マーカーが発生するのは、過去に暗い路地で危険な目にあった経験があり、暗い路地と否定的な身体感覚が結びつけられたからです。
ソマティック・マーカーは、意思決定を迅速化し、特に複雑または不確実な状況下での判断を助けるとされています。意識的な思考よりも速く情報を処理するため、無意識下で意思決定に影響を与えます。直感的な判断とも言えるでしょう。
前頭前野の損傷を持つ患者は、理論的には正しい選択を理解できるにもかかわらず、実際の生活の中で不利益な選択を繰り返す傾向がありました。ダマシオは、この理由を、前頭前野の損傷によりソマティック・マーカーを利用できない為だと考えました。過去の膨大な経験に裏打ちされた危機への否定的反応や、利益への肯定的反応が無い為、無意識下での最善な意思決定が出来ないということです。
3.ソマティック・マーカー(身体反応)は過去の経験に基づいて形成される
ソマティック・マーカーが過去の経験に基づいて形成され、それが無意識下での意思決定に影響を及ぼしてしまうので、経験をどう解釈したかが重要になる筈です。
例えば、誰かからとても辛い仕打ちを受けるような経験をしたとします。その経験をただ単に「辛い」と解釈してしまうと、辛さをもたらした対象を避けるようなソマティック・マーカーが形成されてしまいます。その場合、終生対象から逃げ続けることになるでしょう。食わず嫌いのような現象が続くことも考えられます。
一方で、「辛かったが教訓を得られた」、「辛かったが何かしら副次的なメリットがあった」のような解釈が出来たら、ソマティック・マーカーが形成されない、乃至は肯定的なソマティック・マーカーが形成されることがあるかもしれません。
同様な辛い経験をした場合でも、人によってはその後の人生が全然違う方向に行く場合があります。何故違いが生じるのかを考えると、結局その辛い経験についての解釈の差に起因するのだと思います。
どう解釈したかによって、その後のソマティック・マーカーの出方が異なります。ソマティック・マーカーが異なれば、行動が変わります。その行動の経験が、またその後のソマティック・マーカーを微妙に変えていきます。これが何度も繰り返されます。
最初の解釈の違い。それが最終的に大きな差になります。
最初は、1×1.01と1×0.99の解釈の違いです。これを100回掛け算した際の差は歴然です。