惑星ソラリス

哲学

「惑星ソラリス」は1972年にアンドレイ・タルコフスキー監督によって旧ソ連で映画化された後、スティーブン・ソダーバーグ監督によって2002年にリメイクされた作品です。
舞台は、不可思議な海で覆われた惑星ソラリスです。主人公ケルビンは惑星上空に浮かぶステーションに到着します。先任者の一人に出会いますが、まともな会話が成立しません。別の研究員はすでに自殺しており、自室に閉じこもっている研究員もいます。彼らは、ステーションに存在しない筈の人間が突如として出現するという奇妙な現象により精神的に苛まれていました。やがてケルビンの前にも何年も前に自殺した恋人ハリーが死ぬ直前の頃の姿で現れます。謎の人間たちは、ケルビンら研究員の記憶をもとにして「ソラリスの海」が生み出したコピーでした。研究員達は、コピーのオリジナルに対して夫々トラウマを負っており、精神が蝕まれていきます。

まとめ
1.ソラリスの海は意図が全く分からない絶対的他者
2.ソラリスの海は悪意の無い究極の不条理
3.この世界も絶対的他者

結論
世界は心が誕生するずっと以前から存在し、心が不条理を生んだ。

1.ソラリスの海は意図が全く分からない絶対的他者

死んだ筈の人間が次々に出現する現象に遭遇し、自らの狂気を疑う主人公ですが、やがて惑星ソラリスの海が一つの知的生命体であり、死者の実体化は、海が人類の深層意識を探り、コミュニケーションを取ろうとする試みではないかという可能性に行き当たります。しかし、何故こんなことをするのか「ソラリスの海」の意図は全く分かりません。
「絶対的に分からない」という設定こそが、この映画を特異な作品にしていると思います。
同じSFでも、エイリアンやスターシップ・トゥルーパーズに登場する昆虫型宇宙生物とは意思疎通は全く出来ませんが、人類を滅ぼそうという意図は明確です。
一方で、「ソラリスの海」が作り出す個々の死者のコピーとは会話は出来ますが、「ソラリスの海」の意図が全く分かりません。
人類の常識では、何の為にこんなことをするのか分かりません。人類の常識で測るから分からないとも言えます。

2.ソラリスの海は悪意の無い究極の不条理

「ソラリスの海」の意図もさることながら、悪意でやっているのか、善意でやっているのかも分かりません。
そもそも人間の感情や心は、進化の過程で獲得したものです。人間は社会的生物であり、怒りや悲しみ等の感情を持つことで社会性を高め集団戦法で生き残ってきました。
一体のゴーレムより、罠を仕掛け連携プレーをする100体のスライムの方が強かった訳です。集団戦法には感情をベースにした同調圧力が必要です。ベクトルを合わせる必要があります。感情は、数多くの個体が社会を形成する為に必須です。電車内でマナーの悪い人に怒りと不快感を覚えるようでないと円滑な社会生活は営めません。
「ソラリスの海」は集団ではありませんから、知的生命体であったとしても感情を発達させるような進化をしていない可能性があります。
感情がないかもしれませんし、その場合、悪意と善意の差も生じません。人間の研究員が自殺することに何の罪悪感はありませんし、罪悪という概念も無いことになります。悪意も無いので、人間にとって如何に不条理な行為であったとしても、不条理だと分かりません。不条理とは感情を前提とする概念だからです。

3.この世界も絶対的他者

宇宙が誕生したのが138億年前、地球が誕生したのが46億年前、生物が誕生したのが40億年前とされています。人類(ヒト属)は、約200万年前から700万年前に誕生し、現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生したのはおよそ20万年前とされています。
つまり、人間の感情や心が誕生する以前からずっと宇宙は存在していました。人間が不条理と感じる為には、感情が必要ですので、不条理の歴史も宇宙に比べたら浅いといえます。不条理とは道理が立たないことですが、道理を考えるのは人間です。宇宙は当初から変わらずに宇宙のままであり、自然の理に従って淡々と無限に因果を繰り返しているだけです。宇宙に自由意志はありません。この世界も「ソラリスの海」同様、絶対的他者のようなものです。
人間はラプラスの悪魔ではないので、宇宙の全ての因果を把握できません。宇宙の極一部しか認識できないので大部分の因果は分かりません。不条理に出くわすのは寧ろ当然のことです。
ユカタン半島に落下した巨大隕石は恐竜にとっては不条理な事件でしたが、哺乳類の隆盛に道を開いたとも言えます。隕石落下はビッグバンが起こった時点で確定していた未来ですし、隕石に悪意はありません。

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