ギュゲスの指輪

哲学

絶対に誰にもバレずに悪事をはたらくことが出来るとしたら、人間はどういう行動をとるでしょうか。誰もいない交差点で信号無視して横断歩道を渡るくらいのことは、やったことがある方も多いと思いますが、凶悪な犯罪の場合はどうでしょうか。
プラトンの対話篇「国家」のなかに、「ギュゲスの指輪」という物語が出てきます。
ギュゲスはリディアの羊飼いでした。ある日、彼は地震によって開いた地割れから青銅の馬とその中にあった金の指輪を見つけました。彼はその指輪を持ち帰ります。
指輪の宝石部分を人に見えないように内側に向けると、彼は透明になり、周囲の人々から見えなくなります。指輪をもとの状態に戻すと、再び見えるようになります。ギュゲスはこの指輪を利用して、王の宮廷に潜入し、王妃に近づき姦通した後、二人で王を殺して王位を奪いました。本当に悪い奴ですね。

まとめ
1.バレないと恥にならない
2.日本では恥がないと道徳が機能しない
3.恥の文化には究極的には良心の呵責がない

結論
匿名性が高いと恥の概念が薄れ、群衆心理が増殖する。

1.バレないと恥にならない

プラトンの対話篇「国家」のなかで、プラトンの兄であるグラウコンは、ギュゲスの指輪を持っていれば、誰でも自分の利益のために不正を犯すだろうと主張しました。一方、プラトンは、真の正義を理解する人は、指輪の力があっても不正を犯さないだろうと反論しました。かなり煩悩にまみれた欲深い人間でない限り、王位の簒奪まで極端なことはしないかもしれません。しかし、誰にもバレずに透明人間になれるとしたら、悪戯程度のことはやってしまう人が多いかもしれません。
社会全体を見れば、プラトンのような高潔の士は少数派だと思いますので、一般人はどう行動するのかを考えるべきです。
いかに恥ずべき行為をしたとしても、バレなければ対外的には恥になりません。

2.日本では恥がないと道徳が機能しない

ルース・ベネディクトが主著「菊と刀」で指摘しているように、日本は恥の文化と言われます。一方で欧米は罪の文化です。欧米では、唯一絶対神を信奉するキリスト教の影響や理性を重視する文化もあり、不道徳な行為を罪とする絶対的な判断軸があります。
他者にはバレなくても、全知全能の神を欺くことはできません。ギュネスの指輪を使って王位を簒奪した場合、確実に地獄に落ちます。だからバレなくても教会で懺悔します。尚、ギュネスはリディアの民でありキリスト教徒ではありません。
日本では世間が定めた道徳基準や常識に反することは恥であると考えます。つまり判断軸は世間という他者次第となります。
そうすると、他者にバレない場合には、恥にならないことになります。恥とは面目を失うことであり、恥ずかしいと感じられる行為ですから、他者がいることが前提となります。全宇宙に自分一人しかいなければ恥にはなりません。道徳は機能しません。キリスト教徒は日本では少数派ですので、大宗の人は全知全能の神にバレる心配もしません。

3.恥の文化には究極的には良心の呵責がない

日本は恥の文化であり、世間という他者からどう思われるかが大きな判断軸となる社会です。他者に絶対にバレない場合は、世間的に恥ずべき行為であったとしても、恥にならないことになります。
良心の呵責とは、自分の行為や行動が道徳的に正しくないと感じ、そのことについて罪悪感を覚えることを指しますが、道徳とは、社会的生物である人間が社会を円滑に回す為に作ったものであり、他者を前提にしています。道徳的に正しくないことや世間常識からずれていることをすると社会から攻撃を受けるので恥が生じます。高潔でないと世間から思われることが恥なので、高潔の士であろうとします。
近年、ネット上でのいじめや誹謗中傷、プライバシー侵害などの事件が多発しています。
これには、SNSの匿名性、即ちユーザーが自身の本名や個人情報を公開せずにコミュニケーションを取ることができることが深く関係しています。
つまり、加害者が特定出来ず自分がやったことがバレないということです。SNSの匿名性といギュゲスの指輪を手にすると、恥にならない為に道徳の壁を簡単に超えてしまいます。
フェイクニュースの拡散や詐欺行為なども同様です。
SNSの匿名性は、恥の文化の弱点を突いています。
何とかすべきですが、対抗手段がジョージ・オーウェル「1984」のビッグブラザーになってしまったらディストピアになります。何かしらのインセンティブの設計が必要です。

タイトルとURLをコピーしました