ピカソのギネス世界記録

幸福

20世紀を代表する画家であるパブロ・ピカソは、『アビニョンの娘たち』や『ゲルニカ』などの革新的な作品で知られています。
91歳で没するまで驚異的な創造力を発揮し続けた不世出の天才とも言われますが、78年間の画家生活を通じて約1万3500点の絵とデッサン、10万点の版画、3万4000点の本の挿絵、300点の彫刻と陶器を製作したとして、最も多作な画家としてギネスに認定されてもいます。驚異的な数ですね。
上記作品数を単純合算しても14万7800点の作品となり、画家生活を78年とすると、年間1895点、一日当たり5点のペースになります。

まとめ
1.尋常ではないピカソの作品数
2.次々と作風が変えていくピカソ
3.愚直な実践と継続

結論
天才の努力ではなく、努力の天才である。

1.尋常ではないピカソの作品数

歴史上、多作で知られる画家は何人かいます。ざっと調べたところ、以下の通りです。
オランダのバロック期の巨匠レンプラント・ファン・レインは、300点以上の絵画、300点以上の版画、そして2000点以上の素描を制作したとされています。
スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤは、500点以上の絵画、280点以上の版画、そして数千点の素描を残したとされています。
フランスのポスト印象派の画家ポール・セザンヌは、900点以上の絵画と400点以上の水彩画を制作しました。
日本の浮世絵師、葛飾北斎は3万点以上の作品を制作したとされています。
多作とされる画家でもこの水準感です。ピカソの記録が如何に突出しているかが分かります。

2.次々と作風が変えていくピカソ

凄いのは多作であったことだけではありません。時代別に次々と作風を変えてもいます。
「青の時代」:ピカソが19歳の頃、友人であった画家のカスマヘスが自殺をしてしまいます。それを期に鬱病になってしまったピカソは約三年間の間、青い絵の具を使って陰鬱な作風の絵を沢山描きました。
「バラ色の時代」:23歳頃、パリに移住し恋人もできて精神が安定してきた彼は明るい色彩の絵を描く様になりました。
「アフリカ彫刻の時代」:アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻に強く影響を受けたピカソは、代表作の一つ『アビニヨンの娘たち』を制作しました。
「キュビズムの時代」:「キュビズム」とは、複数の視点から対象を把握し一枚の画面に構成する技法です。伝統的な遠近法を覆す革新的な作品を制作しました。
「新古典主義の時代」:仕事でイタリア・ローマを訪れた際、ルネサンスやバロック様式の都市や遺跡などに感銘を受け、キュビズムと並行しながら、古典的で写実的な作品を制作しました。
「シュルレアリスムの時代」:フランスで起こった芸術運動「シュルレアリスム」に影響を受けたピカソは、非現実的な形態のイメージで人物を描きました。
この後にも、1937年のスペイン内戦時、ドイツ軍がスペインのゲルニカを空爆したことを契機に『ゲルニカ』を描いています。
時代によって、同じ画家とは思えない程に作風が異なりますし、各時代の成果に安住することなく次々と作風を変えていきます。

3.愚直な実践と継続

天才とは正に天賦の才であり、秀才と違って努力と無縁なイメージが付きまといますが、ピカソの残した言葉を見ると、大分イメージが変わります。
「画家は労働者が働くように勉強しなければならない。」
「私はいつも自分のできないことをしている。そうすればできるようになるからだ。」
「できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である。」
「芸術家の資格は、智慧と注意と誠実と意志のみである。」
「いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。」
「冒険こそが、わたしの存在理由である。」
これらの言葉からは、愚直に実践し継続しながらも現状に満足せず変革を繰り返すピカソの姿が立体的に浮かび上がってきます。時代ごとに果敢に作風を変えながら、膨大な量の作品を制作し続けた事実が、それを裏付けています。
名作アニメ「NARUTO」の中で、忍術・幻術の才能が全く無かった「熱血落ちこぼれ」ロック・リーに対して、師であるマイト・ガイは「お前は努力の天才だ」と言いました。また、アインシュタインは、「天才とは努力する凡才のことである」という言葉を残しています。
ピカソには天賦の才があっただけでなく、「努力の天才」でもあったに違いありません。

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