パスカルの賭けと神様

哲学

私は神様に会ったことはありませんし、声も聞いたことがありません。大抵の方は同様ではないでしょうか。一方で殆どの方は、教会・神社・寺院に行きますし、祈りを捧げ、参拝をします。一応は神様や仏様を信じているということだと思いますが、敢えて科学的探究心でその存在を追求することはありません。なんだか存在を疑うだけで罰が当たりそうです。
ダーウィンが進化論を発表して以降、聖書の記述の信憑性についても様々議論されてきましたし、哲学者ニーチェも「神は死んだ」と言いましたが、神への信仰を依然多くの人類が受け入れています。

まとめ
1.神や来世は誰も見たことがない
2.デカルトによる神の存在証明はかなり苦しい
3.「パスカルの賭け」で神の存在を信じることも論理的には有り
結論
神を信じることがその人が救われるのであれば真実で可(実用主義)、科学的に真実かどうかは考えても仕方がない。

1.神や来世は誰も見たことがない

神を見たという人はたまにいますが、客観的且つ科学的なエビデンスを用いて説明に成功した事例はなさそうです。
臨死体験とは、文字通り死に臨んでの体験です。医学的には、完全に心拍と呼吸が停止して意識がない状態のときに体験したことを指します。心停止の状態から蘇生した人のなかには臨死体験を報告している方もいるようですが、あの世を見たということが証明できている訳ではありません。

2.デカルトによる神の存在証明はかなり苦しい

近代哲学の祖といわれるデカルトは、数学的な論理性や証明法を用いて哲学的な問題を考えようとしました。
そこで、まずあらゆるものを疑い(方法的懷疑)、疑いえない公理を見つけようとしました。その結果、彼が導き出したのが、有名な第一公理「我思う、故に我あり(Cogito,ergosum)」という命題です。実際に思考している自己の存在だけは、疑いようがないという訳です。
しかし、自己があるからといって、他人の存在や外界に存在する物体について確信できる訳ではありません。つまり、「我あり」という事実から、「他者や外界の物体もあり」という事実への確証は直接的には得られません。
そこでデカルトは、神の存在証明を通じて、自己の存在だけでなく、物体の存在、他人の存在などを確証するための基礎を築こうとしました。
彼は神を「欺きのない存在」と定義しました。従って、欺くことのない神が存在すれば、私たちが経験する世界は信頼できるものであり、実際に存在するという訳です。
そこで、彼が考えた神の存在証明ですが、以下の内容になっています。
人間は、「無限」や「完全」といった観念を持っている。しかし、そうした観念は有限な存在である人間からは導き出せない筈である。従って、これらの観念は、無限且つ完全な神自身から人間に与えられたものに相違ない。従って神は存在する。
「えっ?なんでそうなるの?」というのが私の感想です。無理があると感じるのは私だけではないでしょう。かなり苦しい説明です。

3.「パスカルの賭け」で神の存在を信じることも論理的には有り

一方で、「人間は考える葦である」や気圧の単位ヘクトパスカルでお馴染みのパスカルは、神が存在するかは兎も角、信じた方が良いという理屈を展開しました。
主著「パンセ」に以下の一節があります。

私たちは神が存在するということに賭けるべきだろうか。この賭けにおいて得られるものは無限の幸福であり、失うものは有限の幸福である。しかもその有限は無限の前では無に等しいようなちっぽけなものである。このローリスクハイリターンの賭けに乗らないのは、盲目的な情念によって小さな目先の財産にしがみつく、よほど非理性的な人間であろう。

パスカル「パンセ」

もし、神が存在し、神を信じることで死後に天国に行けるとしたら、神を信じないと地獄に行くことになります。一方、もし神が存在しない場合、天国も地獄もないので、神を信じても信じなくても、損得はありません。
この賭けの結論は、神を信じることに賭けた方が、報酬が大きくリスクが小さいということです。
あまり信心深い態度とは言い難いですが、論理的ではあります。
神を信じることで救われるのであれば、本人にとっては真実と考えて良い(実用主義)と思います。有限の能力しかない人間が、神の存在を証明するのは不可能だと思います。科学的に真実かどうかは考えても仕方がないと思います。
仮にノアの箱舟が発見されたとしても、聖書の記述が史実であったとは言えるかもしれませんが、神の存在証明にはなりません。

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