定義や境界値が曖昧なケースは日常でもよく見受けられます。
面白い例として「砂山のパラドックス」があります。公園の砂場に砂山があり、この砂山から一粒ずつ砂を取り除いていくことを想定します。
前提1「砂山は膨大な量の砂粒からできている」
前提2「砂山から一粒の砂を取り除いても、依然として砂山のままである」
一粒ずつ砂を取り除いていくと砂粒数は徐々に減り、最終的に砂粒が一粒だけになります。
前提2が真であるなら、この状態でも砂山となりますが、前提1が真だとすれば、このような状態は砂山ではないことになります。
これと同様のパラドックスに、「禿げ頭のパラドックス」、「ロバのパラドックス」があります。
「禿げ頭のパラドックス」は、髪の毛が一本も無い人に髪の毛を一本ずつ足していく話です。
「ロバのパラドックス」は、ロバの背に荷物の藁を背骨が折れる迄一本ずつ足していく話です。
1.倫理にも砂山のパラドックスは存在する
「砂山のパラドックス」に陥らない方法は幾つかあります。一つは境界値を決めてしまうことです。例えば10,000粒以上は砂山と定義してしまうことです。もう一つは履歴から考える方法です。当初砂山であった場合、砂が減ったとしても砂山とし、当初数粒の砂だったが徐々に増えた場合は砂山と見做さない考え方です。しかし何時を当初とするのかという問題は残ります。
別の方法としては、集団的合意です。砂粒の集まりがどれだけの量になれば「砂山」と呼べるか、大半が納得する定義を決定することです。民主主義で定義を決めるのも若干違和感がありますが、現実的な決着としてはあり得ます。
倫理上の線引きも結構曖昧です。例えば遅刻です。遅刻は絶対許さないという場合と10分以内なら許容範囲とする場合等、考え方には差があります。
友人との間で100円を借りたのに返さない場合と、100万円借りたのに返さない場合もそうです。どこ迄が許容範囲なのか絶対的な金額を決めるのは困難です。友人の資産額や資金繰りの逼迫度に依っても金額の相場は変わります。
2.倫理上の線引きは集団的合意しかない
何分までの遅刻が許容されるのかについては、結局は待っている側の集団的合意に依るのでしょう。遅刻者が常習犯か否か、待たされた側に短気な権力者がいるか否か、ブレストレベルのミーティングか重要な会議か等、様々な要因が絡んできますので、一律に線引きが出来る訳ではありません。
インドの鉄道は遅延が一般的で、1~2時間程度の遅延は遅延のうちに入らないとの話も聞きますが、日本では許されないレベルだと思います。こうした社会的な時間認識も関係するでしょう。日本国内であっても都会と田舎では少し感覚が異なります。
3.倫理上の線引きは移動平均に従って移動する
会社等、所属する集団によっても異なります。社内倫理は権力者の考え方に引っ張られることが多いです。集団的合意は一人一票ではなく、権力でウェイト付けされた加重平均になります。
権力者の人事異動によって、倫理上の線引きも加重平均の移動平均に従って移動していきますので、高度な情報収集力と分析力が必要になります。これが忖度の技術です。権力者に対する阿吽の呼吸の世界です。
虎の尾を踏まない為には、どこに虎の尾があるのかを知る必要があります。厄介なことに虎の尾は動きますので、常時神経を尖らせておく必要があります。こうした仕事は感情労働の一種とも言えますし、且つブルシット・ジョブでもあります。社内での電子メールやチャットが一般化し、権力者の反応が一瞬で共有される為、この手の仕事に対する神経リソースの配分は増加している感があります。
心理学者スタンリー・ミルグラムの「アイヒマン実験」(またはミルグラム実験)で、人間が権威者の命令に従う傾向が強いこと、そしてその命令が自らの倫理感に反することであっても従ってしまうことが明らかになりました。
集団内で合理的な方法に従って、「どこまでが砂山か」を決定できればブルシット・ジョブは相当程度減るような気がします。