禅の公案の一つに「非風非幡」というものがあります。「風に非ず、幡(はた)に非ず」と読むようです。禅宗六祖・芸能禅師が、中国の広州を旅していたころ、とあるお寺で説法が行われていました。当時は、説法の日には旗を立てる習慣があり、その風になびいている旗を見て、とある僧がこのように言います。
「あれは旗が動いているのだ。」
すると、別の僧が反論します。
「いや、あれは風が動いているのだ。」
二人は互いの主張を譲らなかったため、決着がつきませんでした。丁度それを聞いていた慧能禅師は言いました。
「旗が動いたり、風が動いたりするのではない。人の心が自ら動いているのだ。」と。
1.人の心が動いている
この話は、自然科学的に解釈してしまうと何を言っているのか分かりません。「風も幡も動いています、以上。」となってしまいます。
「非風非幡」の話は、現象や事象自体は中立で、それがどのように解釈されるかは観察者の心や意識に依存するということを表現しているとされています。物事をどのように捉えるかは自分の心次第であるということです。
風が動くのでもない、幡が動くのでもない。二人の僧は目の前の現象に心を奪われているだけであり、外の対象に心を動かすのでなく、それに動かされている自分の心こそ見つめるべきであるということだと思います。
2.存在するとは知覚されること
「非風非幡」について考えているうちに、ふと経験論の哲学者ジョージ・バークリーのことを思い出しました。
バークリーの思想は、物質的な実体の存在を否定し、現実は精神的な経験によってのみ知り得るとする立場に立っています。
彼の哲学の中心的な命題は「存在するとは知覚されることである」ということです。物質的な物は独立して存在するのではなく、私たちの知覚の中でのみ存在します。つまり、私たちが知覚しない限り、物は存在しないという立場です。物質的な世界が精神や意識に依存しているという観念論の極端な形とも言えます。
それでは、人が見ていない時に世界はどうなるのかという疑問が生じますが、バークリーは「神が常に知覚している」という考え方をしました。つまり人類が滅亡しても、神が知覚しているから世界は恒常的に存在するという訳です。
知覚という行為が現実を構成するという点で、経験論の伝統に立ちながらも、物質世界の実在性を否定するところが独特で面白いと思います。
人が見ていなくても神が見ているという点については、いかにもキリスト教徒的発想だとは思いますが、「非風非幡」同様に、外部の現象や事象自体よりも、それを解釈している自分の心や意識にフォーカスしている点に通底するものを感じます。
3.実際の世界は無意味
「非風非幡」の話にあるように、全く同じ風景を見ていても、人によって解釈の仕方は異なります。
不条理を追求した作家カミュによれば、人間は自然に世界を理解し、その中に意味や目的を見つけようとしますが、世界自体は無意味であり、人間の理解を遥かに超えています。
従って人間が世界に意味を見つけようとする試みと、世界がその意味を提供しないという事実との間には基本的な不一致、つまり「不条理」が生じます。宇宙に存在する万物は自然法則に従っています。人間の感情などお構いなしに、宇宙は自然法則に従って淡々と流転するだけです。
寧ろ不条理な状態こそデフォルトであり、そのことを受け入れて前進するしかないのかも知れません。
そうなると、人間に出来るのは世界をどう解釈するのかということだけです。外部の現象に拘って「風が動く」と思うのか、「幡が動く」と思うのか、明鏡止水の境地でひたすらに風の心地良さを感じるのかは、その人の知覚の解釈次第です。
一般的で固定的な世間の物差しというフィルターを通して、世界の意味や目的を理解してしまうと、世界がその意味を提供しないという事実に失望し、不条理を感じてしまいます。
世界自体は元々無意味で人間の理解を遥かに超えているという前提にたち、自分の心が現象をどう解釈するのかに集中した方が余程生産的です。
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