橘玲氏の著書である「無理ゲー社会」を読むと暗澹たる気持ちになりますが、その鋭い分析にはいつも驚かされます。
「無理ゲー社会」の下敷きになっているのは、リベラルデモクラシーです。リベラルデモクラシーは、一般的に「自由な市民による民主的な選挙によって国家(権力)を統制する政治の仕組み」を指します。このこと自体は専制政治と比較すれば、良い仕組みに思えます。
しかしながら、この仕組みがもたらす自由な社会こそが、「すべての人は自分の人生を自分で選び取り、自分らしく生きるべきだ」という、リベラルな価値観を拡大させ、「自分らしく生きられない」と苦悩する人を急激に増やしている原因にもなっています。
1.自由な社会は複雑になる
自由な社会で「自分らしく生きる」というイデオロギーが拡散されたのは、比較的最近で1960年代のアメリカ西海岸のヒッピーカルチャーが発端です。その後若者を中心に世界中に伝播しました。
自分らしく生きられる世の中では、当然に価値観が多様化し人々は仕事も結婚相手も自由に選択するようになります。昭和時代の様なお見合い結婚は廃れていきます。
昭和時代の日本では婚姻率が100%に近く、相手のことをよく知らないままお見合いで結婚するのも普通でした。女性の社会進出も限定的で、男女の雇用格差も大きかった為、女性は20代で適当な相手を見つけて結婚していました。就職の面でも恋愛や結婚の面でも決して自由ではありませんでした。
自由な社会が到来すると、自由な恋愛や結婚が増加します。社会的なマッチングシステムは破綻し、男性の場合は年収、女性の場合は若さで選ばれる傾向が強くなり、結婚したくても出来ない人が出てきます。男女ともに未婚率が上昇します。また、自ら結婚しないことを選択する人々も増加します。
全員の利害が複雑化しますので、人間関係も複雑になります。政治は利害調整の機能を失います。高度成長期のように所得が倍増すればみんな満足という訳にはいきません。政治に関する変数が増加し解が出せなくなります。
2.自由な社会は生きづらくなる
よく自由には責任が伴うと言われますが、自分らしく生きられる社会では、成功も失敗も自己責任にされてしまいます。全ての失敗の原因は努力不足にされてしまいます。社会への責任転嫁はできません。
これを「メリトクラシー」と言います。メリトクラシーは、「メリット」と「クラシー」を組み合わせた造語で、メリットは業績や実績(つまり能力)、クラシーは支配・統治を意味します。要するにメリトクラシーは能力主義やエリート主義です。個々の地位や報酬が能力や実績によって決まるシステムです。そのような統治社会の原理や概念のことをも示します。
3.自由な社会は優勝劣敗になり格差が拡大する
「無理ゲー社会」の表紙には、「才能のある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア」という副題が添えられています。
誰にでも才能はあると思いますが、現代の資本主義市場経済で有用な才能であるかどうかは別問題です。需要の無い才能は世の中で発現しにくくなります。経済学のセイの法則ではありませんが、需要=供給(供給したものは全て売れる)にはなりません。
時代にマッチした才能だけが発現し、メリトクラシーの環境下、利益を総取りしていきます。当然、優勝劣敗による格差が拡大します。
収入格差が拡大すると、高額な教育費の負担可否によって教育格差も拡大します。教育格差が能力格差に繋がり、更に格差が拡大していきます。次世代にまで引き継がれます。自由な社会は残酷な社会でもあります。格差の拡大がポピュリズムに繋がり、世界は混乱するかもしれません。
しばらくは自由な社会の拡大は止まらないと思います。同時並行的に日本では未曽有の少子高齢化が進行します。普通に考えたらディストピアがやってきます。確実にやってくるディストピアに対処すべく、出来ることはないのでしょうか。
「フォーカシング・イリュージョン」という言葉があります。ある特定の状態に自分が幸福になれるかどうかの分岐点があると信じ込んでしまう人間の認知バイアスの一種です。例えば「いい学校に入れば幸せになれるはず」、「いい会社に入れば幸せになれるはず」、「結婚すれば幸せになれるはず」という根拠薄弱な幻想です。
こうした世間の価値観で思考し続ける限りディストピアからは脱出できません。「無理ゲー社会」から逃れる為には、世間の価値観を吟味し、自分の価値観を確立するしかありません。世間を変えることは難しいですが、自分の思考回路を変えることだけは一人でできます。無理ゲーに付き合い続ける必要はありません。