「ヨナ・コンプレックス」と幸福感の射程

バイアス

人間の欲求は、生理的欲求・安全の欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現の欲求の5階層に分けられるという、有名な欲求5段階説を唱えた心理学者のマズローですが、「ヨナ・コンプレックス」という興味深い概念も提唱しています。
「ヨナ・コンプレックス」とは、自分の能力を発揮することを恐れる傾向のことです。ヨナとは旧約聖書に登場するイスラエルの預言者のことだそうですが、能力の発揮と一体どんな関係があるのでしょうか。

まとめ
1.旧約聖書でのヨナの物語
2.能力の発揮は安全ではない
3.幸福感の射程の長さ

結論
能力の発揮は、その人の幸福感の射程の長さに依存している。

1.旧約聖書でのヨナの物語

そもそも旧約聖書のヨナの物語はどんな内容なのでしょうか。簡単にまとめると以下のようなお話でした。

  • イスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネヴェでは悪が横行していたので、神の怒りを買う。
  • ヨナは、神から、ニネヴェに行って40日後に町が滅ぼされるという預言を伝えるよう命令される。
  • ヨナは敵国アッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対の方向に逃げ出す。
  • 神は船を嵐に遭遇させる。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったかについてくじ引きをする。ヨナがくじにあたったので、船乗りたちは彼を問い詰める。ヨナは自分を海に投げれば嵐はおさまると船乗りたちに言い、ヨナは海に投げ込まれる。
  • ヨナは神が用意した大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚の腹の中にいたが、海岸で吐き出される。
  • ヨナは悔い改め、ニネヴェに行って神のことばを告げると、意外なことに人々はすぐに悔い改める。それを見て神はニネヴェの破壊を中止する。ヨナは神が中止したことに激怒する。
  • ヨナは、庵を建ててニネヴェがどうなるか見ていたが、庵の横に瓢箪が生える。ヨナは瓢箪が日よけになったので喜んでいたが、神は虫を送って瓢箪を枯らしてしまう。
  • ヨナは激怒して神に訴えたが、神はヨナがたった1本の瓢箪を惜しんだのだから、神が数多くの人間と無数の家畜がいるニネヴェを惜しまないことがあろうかと諭す。

私がヨナと同じ状況に置かれたら、やはり逃げると思います。敵国の首都に単身乗り込んで「お前たちの町は神に滅ぼされる」などと喚いたら、頭がおかしいと思われるか、敵国の官憲に捕縛されて最悪処刑される可能性もあるからです。

2.能力の発揮は安全ではない

マズローが、概念の説明にヨナを引用したのは、人間には自分の能力を発揮することから逃げる傾向があることを、キリスト教圏ではよく知られた物語を使って分かり易く表現したかったからでしょう。
実は、自分の能力を発揮することは面倒であり、ときには苦痛やリスクを伴います。
志望校に合格する為には、かなり勉強しなければなりません。自分の能力をフルに発揮して、得意科目を得点源にし、苦手科目を克服する必要があります。オリンピックに出場する為には、自分の持てる能力をフルに発揮してライバルを上回る技を編み出し、極限まで鍛錬を繰り返す必要があります。
志望校に合格しなくても、オリンピック選手に選ばれなくても、当然ですがそれなりに生きていけます。安穏な生活を求めるのも一つの価値観です。逆に言えば、挑戦して失敗したときの精神的ダメージは相当に大きい筈です。ヨナで言えば、敵国の首都に単身突撃して、敵国民を非難した挙句、捕縛されるようなものです。
生物の究極の目的が、生存と生殖である以上、命に係わるような余計なリスクをとらないのは、当然のことです。「ヨナ・コンプレックス」はその為に遺伝子に刻まれた脳のリミッターとも言えます。

3.幸福感の射程の長さ

生物のなかで人間だけが、「ヨナ・コンプレックス」というリミッターを自ら解除することがあるのは、何故なのでしょうか。
殆どの生物が、日々生存することに集中しているのに対して、人間だけが将来を重視しているからかも知れません。
現在の幸福を重視するか、現在から1年以内までの幸福を重視するか、30年以内までの幸福を重視するか、能力の発揮は、その人の幸福感の射程の長さに依存していると思います。
自分の幸福感の射程の長さのなかで、トータルの幸福感を極大化する為に、能力を発揮して足許の苦痛を受容することは合理的ですし、「ヨナ・コンプレックス」から脱する場合があるということです。
但し、能力を発揮したからといってうまくいく保証はないので、「ヨナ・コンプレックス」から抜け出すには将来を強く信じるような陶酔も必要です。
長期間に亘り社会の現実に向き合い過ぎると、徐々に陶酔する能力が失われます。幸福の射程を短くするか、幸福感の射程を来世に伸ばすしかありません。

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