インドラの網

哲学

華厳仏教の世界観を表現したメタファーに「インドラの網」というものがあります。インドラは、ヒンドゥー教やバラモン教の神で、雷と戦いの神として知られています。仏教にも登場しますが、日本では帝釈天と呼ばれています。従って「インドラの網」は「帝網」とも呼ばれます。
「インドラの網」とは、インドラ神の宮殿にある宝網のことです。その各々の結び目には宝珠があり、それが互いに映し出され、その映し出された宝珠がさらに他の宝珠に映し出されるという無限の関係性を表現しています。
華厳仏教では万物が重重無尽に関係しあっているとされています。また、網は一点を持ち上げると全体の形が変わることから、世界の因果関係はすべて連関しており、微小なる一こそが全体でもあり、全体が微小なる一の中に含まれるという世界観を喩えています。

まとめ
1.世界の有り様はインドラの網である
2.一即多であり、多即一である
3.独立した自我はない

結論
人類全てがインドラの網の世界観を理解したら世界平和が訪れる。

1.世界の有り様はインドラの網である

「インドラの網」の世界観は、無数のミラーボールが繋がっており、一つのミラーボールに他の全てのミラーボールが映っていると同時に、一つのミラーボールが他の全てのミラーボールに映っているような状態といえます。「南米の蝶が羽ばたくと、北米で嵐を引き起こす」ことをバタフライエフェクトといいますが、これと同様に全ては繋がっており、相互に影響を及ぼし合っているということです。
一方で、一神教の世界では唯一絶対神からの一方通行で世界が進行します。哲学者ライプニッツのモナド論が良い例です。
モナド論では、モナドと呼ばれる不可分で単純な実体が宇宙の基本的な構成要素であるとされます。モナドは、他のモナドから影響を受けることなく、自己完結しています。
また、モナド論には「予定調和」という概念も含まれています。これは、全てのモナドが神によって予め調和するように設定されているという考え方で、物事が自然に最善の状態に向かって進行するという神学的な視点を表しています。「モナドには窓が無い」ので、他のモナドから全く影響を受けませんが、神が全てのモナドをコントロールしているということです。東洋人としては、「インドラの網」の方がしっくりきます。

2.一即多であり、多即一である

無数のミラーボールが繋がっており、一つのミラーボールに他の全てのミラーボールが映っていると同時に、一つのミラーボールが他の全てのミラーボールに映っているような状態なので、世界の因果関係はすべて連関しており、微小なる一こそが全体でもあり、全体が微小なる一の中に含まれることになります。これを「一即多、多即一」といいます。
個々の存在が全体と結びつき、全体が個々の存在に反映されるという、相互依存と相互浸透の世界です。
例えば、インドラの網の宝珠の一つが自分だとします。近親者や友人・知人の宝珠は近いので、自分の宝珠には大きく映ります。会ったこともない人物の宝珠はかなり遠方にありますので、自分の宝珠には小さく映ります。重要なのは、たとえ小さくても映っているということです。逆に云えば、自分の宝珠の本質とは、他の全ての宝珠が映りこんだものであるということになります。自分も他の全てから出来ているということです。正に多即一です。

3.独立した自我はない

自分の宝珠の本質とは、他の全ての宝珠が映りこんだものであるということは、自分には実体がないということです。独立した自我はありません。自分とは他の全てが映りこんだ宝珠に過ぎないからです。
自分という存在は、ビッグバン以降連綿として続く因果の結果です。自分が夕飯に食べたものは、世界中で生産された作物であり、着ている服は世界中で生産された綿花や石油から出来ています。何十億という人間が世界中でエアコンを使えば気候変動にも影響します。世界と繋がっていない人間は皆無です。
人間の知覚能力には限界があるので分かりませんが、無限のバタフライエフェクトが宇宙規模で常時発生している訳です。その微小な作用の全てはラプラスの悪魔にしか分かりません。
しかしながら、地球規模で考えてみるとインターネットの普及によりダイレクトにインドラの網を大きく揺らすことが出来るようになってしまいました。フェイクニュース一つで大混乱が起こります。世界をモナド論の如く捉えている限り、世界は平和にはなりません。信じる神によって予定調和が異なるからです。必ずコンフリクトが起こります。
人類全てがインドラの網の世界観を理解したら世界平和が訪れるかもしれません。なにしろ一即多、多即一ですので、他人とは自分のことだからです。

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