「般若の面」と蛇

文学

「般若の面」と云えば能面の一種であり、女性の嫉妬と恨みを表現した怨霊の面とされています。額に二本の長い角が生えた鬼女の面です。
そもそも般若とは、般若心経の般若であり、仏教において最高の智慧を意味する言葉です。この面が般若の面と呼ばれる由縁については、般若坊という僧侶が創作した等、諸説あるようです。
鬼女の面は般若の一種類だけかと思っていましたが、怨念の度合いに応じて幾つか種類があるようです。なかなかに興味深いですね。

まとめ
1.人から徐々に鬼になる
2.最終形では殆ど蛇になる
3.最終形態「真蛇」と「道成寺」

結論
元々の鬼はいない。嫉妬と恨みが鬼をつくる。真蛇になったらもう人間に戻れない。

1.人から徐々に鬼になる

ひとことで鬼と言っても、仏教系の鬼、中国系の鬼等、その起源には様々ありますが、中世の能楽の世界では、怨念や憤怒によって鬼に変身するケースが多いようです。
怨念や憤怒の度合いに応じて面の段階にも幾つかあります。
泥眼:感情が高ぶり始め、人の存在を超越した存在になり始めている状態。白目と歯先が金色に塗られている。
橋姫:更に復讐心が増幅し、目の下が赤く塗られ、泥眼より髪が乱れて目の金色が目立つように彩色されている。
生成:鬼となる途中の姿を模した面で、額の両側に短い角が生えかけている。
中成(般若):額には金泥を塗った二本の長い角が生えている。毛が乱れて上下の歯と二対の牙があらわになっている。上半分が眉根を寄せた悲しげな表情であるのに対し、下半分では大きく開かれた口が激しい怒りを表している。
大成(真蛇):怒りや恨みが極点に達し、口から舌が覗いており、また面によっては耳がないなど、人間よりも蛇に近い顔つきをしている。

2.最終形では殆ど蛇になる

鬼女が最終形態で蛇に近づき、真蛇となる点が興味深いです。
「蛇蝎の如く嫌う」や「蛇蝎視」という表現がありますが、「蛇蝎」とはヘビとサソリです。人の恐れ嫌うものの代表例の一つが蛇です。何故これほどまでに蛇を嫌うのでしょうか。
人間の祖先である猿は樹上生活をしていました。当時の天敵は猛禽類とネコ科の動物、そして蛇ですが、樹上のかなり高い場所まで近づけたのは蛇だけでした。猿は蛇のカモフラージユを素早く察知する必要があり、脳内の蛇に反応する領域が発達し、恐怖を感じるよう進化したと考えられています。子孫である我々人間もDNAレベルで蛇を嫌っている訳です。
蛇を神として敬うようになったのは文明以降です。蛇は脱皮を繰り返しますが、その様子が生まれ変わりを連想させ、「生命力」を象徴する動物として捉えられるようになりました。
神話では、医療の神アスクレピオスが持つ杖には蛇が巻き付いており、日本でも白蛇が特に神聖視され、幸運や繁栄の象徴とされています。白蛇は弁才天や宇賀神と関連付けられ、財運や福徳をもたらす存在とされます。

3.最終形態「真蛇」と「道成寺」

鬼女の最終形態である大成(真蛇)ですが、この面が使用される代表的な能の演目が「道成寺」です。粗筋は以下の通りです。
紀伊の道成寺では、再興した釣鐘の供養が行われることになりました。住職は、「訳あって女性が来ても絶対に入れてはならぬ」とお触れを出しますが、一人の白拍子の女が供養の舞を舞わせて欲しいと頼み込み、供養の場に入り込みます。女は独特の拍子を踏み、舞いながら鐘に近づき鐘を落としてその中に入ってしまいました。
ことの次第を聞いた住職は、道成寺にまつわる恐ろしい物語を語り始めます。それは、昔、とある女が、毎年この寺を訪れていた山伏に裏切られたと思い込み、毒蛇となって、道成寺の鐘に隠れた山伏を、恨みの炎で鐘もろとも焼き殺してしまったというものでした。この女の怨霊が白拍子の姿となって再び寺に現れた訳です。
僧達は、祈祷し、鐘を引き上げることが出来ましたが、鐘の中からは毒蛇に変身した女が現れます。争いの末、毒蛇は鐘を焼くはずが、その炎でわが身を焼き、日高川の底深くに姿を消しました。
中成(般若)は、源氏物語を題材とした「葵上」という演目で、六条御息所の怨霊の面として使われますが、最後は僧の祈祷を受けて成仏します。
「道成寺」の大成(真蛇)の面を被った毒蛇は、成仏せずに逃げ去ります。釣鐘から出てくるという演出もおどろおどろしい感じです。
元々の鬼はいませんし嫉妬と恨みが鬼をつくります。大成して真蛇になったらもう人間に戻れません。カタストロフィにならないよう肝に銘じたいですね。

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