青信号の謎

哲学

青信号は、どう考えても緑色ですよね。
多くの人がそう思っている筈ですが、何故か「青信号」という言葉を受け容れています。自分自身、幼少期に疑問を持った記憶があるのですが、何故受け容れているのか分かりません。
「青信号は緑だけど青というのが普通なのだ。皆もそう言っているから青でいいのだ。」というレベルです。「青ではなく録だ。」と杓子定規な主張をしたところで、何の益も無いですし、却って変人扱いされるリスクもあります。そうなるくらいなら、長い物には巻かれる方が楽です。

まとめ
1.青信号は緑だが青でもある
2.世界をどう区切るかの問題
3.疑問を感じないことが寧ろ問題

結論
根拠も知らずに鵜呑みにしていることは意外と多い。

1.青信号は緑だが青でもある

青信号の謎には歴史的背景があります。
まず、日本語の古来の色名は「赤、青、黒、白」の4色と言われています。この「青」には現在の「青」と「緑」の両方が含まれています。
日本語においては、古くから緑色のものを青と表現することがありました。緑色の野菜を「青菜」と呼び、新緑を「青々としている」と表現する等、青と緑の色を区別せずに「青」という言葉で表現していた訳です。
このような日本語の習慣が、信号機の色の呼称にも影響を与えます。
日本に最初の信号機が設置された1930年の交通に関する法令では「緑信号」と書かれていました。しかし、信号機の設置に関する新聞記事などで「青」と記載された事により「青信号」の呼称が一般化したと考えられ、その後、法令も「青」と書き換えられた経緯があります。
「青」と「緑」の区別がつけられ始めたのは平安時代末期~鎌倉時代のようです。

2.世界をどう区切るかの問題

構造主義にも多大な影響を与えたとされる現代言語学の父ソシュールは、言語の恣意性について論じています。言語記号(単語や音声)とそれが指し示す対象には、自然な結びつきは存在しないということです。
例えば、日本語では、蝶と蛾は区別しますが、フランス語ではどちらもパピヨンです。
日本語では、兄・弟、姉・妹を区別しますが、英語ではブラザーとシスターしかありません。
日本語では、単に豚ですが、英語では生きていればビッグ、食肉になったらポークです。
つまり、先ず対象があって、それに言語記号を個々に紐づけした訳ではなく、文化圏によって世界の区切り方が違うということです。
色も同じです。太古の昔から現代でいうところの青も緑も水色も存在していましたが、日本人はそれを全て「青」という区切り方をしたということです。
外部からの様々な文化の流入があり、社会的な合意が徐々に変化することで、世界の区切り方が変わっていき、青は分化していきました。
世界には、太古から不変のスペクトルが存在していましたが、人間が文化や時代によって区切り方を変えただけです。

3.疑問を感じないことが寧ろ問題

青信号は緑であるが青でもある理由は分かりましたが、問題は寧ろそのことに疑問を持たなかったこと、更に言えば、持てなかったことにあると思います。
私自身も「青信号は緑だけど青というのが普通なのだ。皆もそう言っているから青でいいのだ。」という程度の感覚で漫然と生きてきましたが、このスタンスは危険かも知れません。
この社会的に「普通」であることを根拠としてしまう思考停止のことです。
例えば、独裁国家に生まれた人にとっては、独裁体制しか知りませんし、独裁体制が社会的に「普通」です。ジョージ・オーウェルの主著「1984年」に象徴的に記述されているように、独裁体制では言論統制やプロパガンダが普通ですし、史実は歪曲されますので、「普通」以外のことを知り得ないですし、着想の種すら与えられない状況に置かれます。
「緑は青である」、「黄緑も青である」、「黄色も青である」のように、社会的に「普通」の移動平均が漂流していった時に、どこかで疑問を感じられるのか否かが大事です。
人間は弱いので、群集心理に飲み込まれてしまいます。戦前の日本もそうでした。
緑信号を青信号として無意識的に受け容れることには、何か不気味な感じがします。疑問を感じない人の比率が社会の閾値を超えると、オセロが真っ黒になってしまう様な感じです。四隅だけでも懐疑的な白石にしておかないといけません。
根拠も知らずに総呑みにしていることは意外と多いですが、それに慣れることは危険です。

タイトルとURLをコピーしました