「夜と霧」は、神経科医で心理学者のヴィクトール・フランクルによって書かれた著作です。ユダヤ人であるフランクル自身が、アウシュヴィッツを含むナチスの強制収容所での経験を基に著した本であり、極限状態での人間の精神と生きる意味について深く掘り下げています。フランクルの両親と妻は強制収容所で亡くなっています。
原文のタイトルは「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」だそうですが、日本語題は「夜と霧」となっています。
「夜と霧」とは元々ヒトラーにより発せられた政治活動家やレジスタンス擁護者を連行する命令のことです。彼らは密かに連行され、まるで夜と霧のごとく跡形も無く消え去ったそうです。ヒトラーが愛聴していたワーグナーの作品に登場する「夜と霧になれ、誰の目にも映らないように」という台詞に由来しています。
1.運命と「テヘランの死神」
「夜と霧」に記述されているユダヤ人の運命は極めて過酷です。長時間、貨車で収容所に移送され、貨車から降ろされると、一列となり親衛隊の高級将校の前まで歩かされます。その将校が右手の人差し指を、右に動かすか左に動かすかで生死が決まりました。
その後も、いつガス室行きになるのか、どんな決断が、どのような運命をもたらすのか、全く分からない状況に置かれ続けます。作品中に言及されていた「テヘランの死神」の逸話が非常に印象的でした。逸話の概要は以下の通りです。
裕福なペルシア人が、召使いを従えて屋敷の庭を歩いていました。ふいに召使いが泣き出したので理由を問い質すと、今しがた死神とばったり出くわして脅されたと言います。召使いは、主人に「足の速い馬をお与え下さい。それに乗って、テヘランまで逃げようと思います」と懇願しました。主人は召使いに馬を与え、召使いはテヘランに逃げて行きました。
すると今度は主人が死神に出くわします。主人は死神に「何故、召使いを驚かしたのだ」と尋ねました。死神は「驚かしてなどいない。驚いたのはこっちだ。あの男にここで会うとは。奴とは今夜、テヘランで会うことになっているのに」と答えました。
運命とはこんなものなのかも知れません。無数にある因果の連鎖から逃れることは困難です。フランクルは収容所内でも運命に逆らわないような決断をするようにしていました。
2.生き延びた人と生きる意味
自分でコントロール出来ない運命は当然ありますが、同じ運命に遭遇した場合でも個々人がそれをどう解釈するかで、その後の運命は分かれます。
実際、収容所でもクリスマスに解放されるとの噂が広まったそうです。しかしその期待が裏切られると、急に力つきてしまう人が多かったとフランクルは述べています。自暴自棄になり、食料と交換できる貴重な煙草を吸いつくしてしまう人もいたそうです。
辻褄が合わない話にも拘らず、戦争が終わるという希望を抱いては、何度も何度も失望させられていたなかで、精神的に生き延びた人と、力尽きて亡くなった人に分かれました。その違いは未来に対し、生きる意味を見出していたかどうかだったとフランクルは述べています。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられないということです。自分がなぜ存在するのかを知っているからこそ、あらゆる苦難にも耐えられます。
フランクルが生きて収容所を出ることが出来たのは奇跡的ともいえますが、最後まで精神的に折れなかったのは、生きる意味を見出していたからです。それは戦後、「夜と霧」となって昇華し、多くの人々の心を支えることになりました。
3.コペルニクス的転回と3つの価値
フランクルは、生きることに何を期待するかではなく、生きることが自分に何を期待しているのかが問題だと言っています。つまり矢印の向きが逆だということです。これを哲学的に「コペルニクス的転回」と表現しています。コペルニクスが天動説を捨てて地動説を唱えたように、発想を転換する必要があるということです。
生きることは過酷な場合もあります。それを嘆くだけでは力尽きるだけです。矢印を逆にして、生きること、つまり過酷な運命は、自分に何を期待しているのか、どう受け止めて何をすべきなのか問われているということです。
フランクルは3つの価値という観点を提示しています。
創造価値:活動の自由があり、人が何かを創造すること、仕事や作品を通じて価値を生み出すこと。
体験価値:美術品や自然の美しさを鑑賞すること、愛する人との関係など、世界から何かを体験し受け取ること。
態度価値:回避できない苦痛や困難な状況に直面したとき、その状況に対して取る態度を通じて価値を見出すこと。
フランクルは、態度価値を最も重視しました。過酷な運命によって創造価値や体験価値が奪われることがあるからです。まさにフランクル自身が経験しています。
「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間として最後の自由だけは奪えない」と彼は述べています。
病や貧困や災厄等の過酷な運命に翻弄され、活動の自由を奪われ、楽しみも奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されており、誰にも奪うことは出来ないということです。
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