アメリカの哲学者ロバート・ノージックが提唱した思考実験に「経験機械」があります。人間が最高の快楽を得られる「経験機械」が存在すると仮定します。この機械に接続されると、人間は自分が望むどんな体験もできます。しかも現実の経験と区別がつかない程にリアルです。その間、本人の肉体は機械によって安全に保護されます。この思考実験は、1974年に彼の著書「アナーキー、国家、ユートピア」において提唱されました。
ノージックは、どんなに快楽が得られようと人間は「経験機械」を選択しないだろうと推測しました。何故なら人間は単に快楽を追求するだけでなく、「現実」で行動を起こし、自分自身の人生を生きることに価値を見出すと考えたからです。
まるでアニメ「ソードアート・オンライン」や映画「マトリックス」のようですが、これらの作品が大ヒットするような時代となった現在では「経験機械」を選択する比率は高まっているかもしれません。乃至は、人生において「経験機械」の比率を高める選択肢も考えられます。
1.現実世界からのテイク・オフは現在進行形で起きている
昨今、異世界もののアニメや漫画、ライトノベルが非常に増えている印象があります。異世界物ものの隆盛は、視聴者や読者の願望が増大しており、その需要に応えた結果とも言えます。黎明期や初期のアニメでは「鉄腕アトム」にせよ「ドラえもん」にせよ、架空ではありましたが、あくまで舞台は現実世界でした。ところが現在の異世界もの作品は、転生後の世界、魔法の使用がデフォルトである世界が舞台になっています。
RPGやeスポーツ迄含めて考えれば、現実世界から仮想世界へのテイク・オフは確実に進行していると思います。
映画「マトリックス」において主人公ネオの仲間であったサイファーは、現実世界の厳しさに嫌気が差し、仮想世界へ戻るべく仲間を裏切ります。彼は仮想世界でのディナーにおいて、美味なステーキがマトリックスから脳への電気信号と知りつつも、幸せならそれでよいと判断しました。
ノージックは、人間は単に快楽を追求するだけでなく、「現実」で行動を起こし、自分自身の人生を生きることに価値を見出すと考えましたが、サイファーは現実世界での人生よりも仮想世界での人生を選択しました。
ノージックが「経験機械」を提唱してから半世紀が経過しましたが、昨今の状況を概観すると、仮想世界へのテイク・オフは不可逆的な様相を呈しているように見えます。
2.仮想世界の進化で経験機械の実現は現実味を帯びてきている
認知革命以降、共通の虚構を信じることが可能になった人類は、様々な虚構を生み出しました。国家、会社、学校、貨幣等です。国家という物質はありません。国家は人間の頭の中にだけあります。国会議事堂は素粒子からできていますが、素粒子の集合体は国家ではありません。
仮想世界との接点は確実に増加しています。また、コロナ禍を契機に在宅勤務やオンラインでの学業も一般化しました。物理的にそこに居る、乃至は存在するということに重きを置く価値観は希薄になりつつあります。そうしたマインドセットは世代を経るごとに弱まっていくことでしょう。
資本主義を背景とした過酷なメリトクラシーの社会で、格差が増々拡大し、無理ゲー社会に嫌気が差した人々が、大挙して仮想世界にテイク・オフするのは時間の問題かと思います。人間の幸福より経済成長を優先した結果であり、不可逆的な流れです。
3.人間は昔から天国や地獄などの虚構を信じてきた
思い返せば、太古の時代から人間は来世という仮想世界を発明し、時に現世より来世を選択してきました。十字軍を始め聖戦と称せられる代物は、来世の安寧を約束するという詐欺によって蛮勇を生み出す仕掛けに依拠していました。
現実世界も仮想世界も、脳にとっては所詮電気信号に過ぎないことが明らかになり、現実世界と仮想世界の間にあった精神的な壁は溶け始めています。
まさに荘子のいう「胡蝶の夢」です。現実世界と仮想世界が等価値となった世界です。人間は現実世界の一択しかなかった世界から解放されるかもしれません。
現実世界ではミニマリスト、仮想世界ではマキシマリストというハイブリッド人生も有り得ます。物質の制約を離れ、選択肢は無限大になります。
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