エリック・ホッファーの生き様

哲学

偶々読書をしていて、エリック・ホッファー(1902-1983)という、アメリカの社会思想家・哲学者のことを知りました。在野の研究者というだけでなく、その生き様が非常に興味深い人物です。独学で思索を深めた哲学者であり、労働者階級の背景を持ちながら、社会心理学と大衆運動に関する深い洞察を提供した作家でもあります。

まとめ
1.エリック・ホッファーの壮絶な前半生
2.大衆運動に対する独自の視座
3.労働との向き合い方

結論
ぶれない生き様がかっこいい。

1.エリック・ホッファーの壮絶な前半生

エリック・ホッファーの前半生は過酷です。
ドイツ系移民の子として1902年にニューヨークに生まれました。7歳にして母親と死別し、同じ年に視力を失ってしまいます。その後、15歳で奇跡的に視力を回復しますが、以来、再び失明する恐怖から、貪るように読書に励んだといいます。この頃に独学する能力を培ったのかもしれません。なんとホッファーは正規の学校教育は一切受けていません。更に不幸は続きます。18歳の頃、唯一の肉親である父親が逝去し、天涯孤独の身となってしまいました。やむなくロサンゼルスの貧民街でその日暮らしの生活を始めます。
28歳の時、多量のシュウ酸を飲み自殺を試みますが未遂に終わります。それを機にカリフォルニアで季節労働者として農園を渡り歩く生活をするようになります。
労働の合間に図書館へ通い、持ち前の独学力を発揮して、なんと大学レベルの物理学と数学をマスターしてしまいます。農園での労働を通じて興味は植物学へと向きますが、これもまた独学でマスターしてしまいます。凄いの一言に尽きます。
その後、ひょんなことから正式な研究員ポストへのオファーを受けますが、それを断り放浪生活に戻ってしまいます。

2.大衆運動に対する独自の視座

転機が訪れたのは、ドイツでヒトラーが台頭した頃でした。偶々読んだモンテーニュの「エセー」に感銘を受け、思索することと記述することに開眼したようです。
1941年より、サンフランシスコで沖仲仕として働き始めます。沖仲仕とは、船舶内で貨物の積み降ろし作業に従事する港湾労働者です。
1951年に最初の著書である「大衆運動」(真の信者:大衆運動の性質についての考察)を上梓します。沖仲仕の仕事のかたわら執筆活動を続けたことから、「沖仲仕の哲学者」と呼ばれました。
この著作のなかで、大衆運動が、個人の欲求不満を集団的な力に変える能力を持っていること、指導者やシンボル、スローガンなどを模倣することで、参加者の間に一体感を生み出し、集団の力を強化すること、そして自己犠牲を美徳として強調し、目的のために個人の利益を犠牲にすることを求めること等の鋭い指摘をしています。
そして、大衆運動というものは、どんなに見かけが立派でも、狂信、熱狂、異常な希望、憎悪、不寛容などを育て、盲目的な信仰と忠誠を要求する点で本質は宗教運動と同じであることを喝破しました。
ホッファーが独学かつ在野の研究者であり、固定観念の無い独自の視座を有していたこと、沖仲仕を含め生涯にわたって多くの職を経験し、大衆に接し続けて、つぶさに観察し続けてきたことが、深い洞察をもたらしたのだと思います。

3.労働との向き合い方

ホッファーは、後にカリフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授になりましたが、沖仲仕の仕事は65歳になるまでやめませんでした。また、港湾労働者の労働組合幹部を長く続けていたそうです。
ホッファーは、「沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかった」と述懐しています。この労働へのスタンスが、何だか惹かれます。どんなに名声を博しても、世間の物差しに合わせることなく、自分のやりたいことから離れず、好奇心の赴くままに生きていく姿。そして、適度に居心地のよい職場を持ち、やりたいこととのバランスが取れているところがいいですね。
17世紀オランダの哲学者スピノザも大学に属さない在野の学者でした。自由な思想と異端的な見解を持っていた為、ユダヤ教コミュニティから破門されたり、殺されかけたりしましたが、破門後は、レンズ磨きの職人として生計を立てつつ、哲学的研究を続けました。スピノザ自身も科学的な探求に深い関心を持っていた為、レンズ磨きは彼の哲学的思索にも影響を与えたと考えられています。
スピノザもホッファーも、それぞれ過酷な時期はありましたが、やりたいことを見失わずに、社会との絶妙な距離感を保って、本当にやりたいことに没頭していたのだと思います。

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