恥ずかしさを示す表現には様々あります。
「赤面する」「穴があったら入りたい」「身の置き所がない」「慙愧に堪えない」「忸怩たる思い」等が思い当たりますが、共通しているのは人間だけに用いられる表現だということです。
「赤面する犬」とか「転愧する猿」とは普段言いませんし、あってもフィクションのなかで擬人化された場合だけです。「恥ずかしい」とは人間特有の感情だからです。
どうしてこんな厄介な感情があるのでしょうか。
1.人間だけが持つ恥ずかしいという感情
人間以外の動物が羞恥心を示すことはありません。「嬉しい」や「悲しい」は、たった一人でも成立する感情であるのに対して、「恥ずかしい」という感情には他人の視線が不可欠です。つまり人間が社会的動物であることと密接な関係がある筈です。
然しながら、同じ社会的動物でも蜂やアリには「恥ずかしい」という感情は恐らく無いでしょう。
「アリとキリギリス」の寓話の影響でアリには働き者というイメージがありますが、アリのコロニーにおいては、働かないアリが一定程度いるそうです。個体毎に反応閾値が異なる為だと云われています。反応閾値とは仕事に対するフットワークの度合いのことです。働かないアリに、怠惰を恥じる感情はありません。あったら働く筈だからです。
2.社会的排斥への恐怖と恥
アリの社会には「恥ずかしい」という感情が無い一方で人間にはそれが有るということは、人間社会の特殊性に起因する感情だということが推測されます。
人類特有と言えば二足歩行が挙げられます。人類の歴史を辿ると、乾燥化によってジャングルがサバンナになった結果、木から降りて二足歩行をするようになり、二足歩行によって女性の産道が狭くなった結果、未熟な状態で子供を産むようになりました。その為、極めて長期に亘る育児期間が必要になり、集団による互助的な社会関係が不可欠となりました。即ち集団からドロップアウトしてしまうと子孫を残せないという訳です。ドロップアウトしないように感情を進化させた個体が生き残ります。その感情こそが「恥ずかしさ」だと云われています。
恥は社会的排斥への恐怖と関連しており、集団からの否定や孤立を避けるための感情的シグナルとして機能します。周囲の評価や信用を失いかけた時、「恥ずかしい」という警告としての感情が生じます。
3.「阿部一族」と「人間失格」と「菊と刀」
先述の通り、恥ずかしさは、本来、人類が生き残る為に獲得した感情です。
ところが、時にその恥ずかしさが逆に人間の生存を脅かすこともあります。
森鴎外の著した「阿部一族」は、藩から恥辱を受けた武士の一族が名誉を守る為に戦って全滅する話です。雪辱の為には死をも厭わないというのは、進化論の理屈を超越しています。その点では「忠臣蔵」も同様です。主君浅野内匠頭の無念を晴らすことよりも、武士道の義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義の七つの徳目に悖ること、更に言うと世間からそう思われることを恐れたが故の討入だと思うからです。
太宰治の著した「人間失格」の冒頭には、「恥の多い生涯を送ってきました」という有名なフレーズがあります。世間一般とは違う自分が生きているだけで恥という感覚に苛まれ続ける主人公の姿が描かれています。本来は集団からの否定や孤立を避ける為の感情的シグナルとして機能する筈の恥が、繊細な精神をズタズタに切り裂いてしまいます。
「菊と刀」を著したアメリカ人文化人類学者のルース・ベネディクトは、日本は「恥」の文化であると喝破しました。日本人の根本にある行動規範は、他人から受けた施しをどう返すかという「恩」と他人からどう見られるかという「恥」に立脚しているという論理です。
世界最大の大陸と世界最大の海に挟まれた島国である日本は、極東の行き止まりであるが故に、超長期に亘り固有の精神的風土が維持されてきました。それだけに世間からはみ出ることを許さないカルチャーが熟成されてきたとも云えます。
社会的排斥への恐怖として生まれ、人間を生かす筈の恥が、特に日本において人間を蝕み時に死をもたらすようになったことは、この精神的風土と無縁ではないと思います。
ジャンヌ・ダルクの背中を押したのは神への信仰ですが、阿部一族の背中を押したのは恥と名誉です。
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