太宰治と並び「無頼派」と呼ばれた作家・坂口安吾の作品に『堕落論』『続堕落論』があります。太平洋戦争敗戦直後、未曾有の国土荒廃と既存の価値観の崩壊に直面していた日本に衝撃を与えたとされる作品です。
作品のなかで「生きよ、堕ちよ」と説き、「堕落」を強く勧奨していますが、何故でしょうか。二作品合わせて1時間もあれば読了できる位の分量ですが、そこには「堕落」のネガティブなイメ―ジとは裏腹に日本人を鼓舞する力強いメッセージが感じられます。
彼は、堕ちるべき道を正しく墜ちきることが必要だと説いており、堕落には孤独という偉大なる人間の実相が存在しているとも云っています。
堕落は厳しい道であり、放蕩でも遊蕩でも道楽でもありません。
1.カラクリと堕落
作品の中で、終戦直後に闇屋になった元特攻隊員や、亡夫の位牌に額ずいていたのに新しい恋人を得た寡婦などの例が出てきます。
一見すると彼らは堕落した人々の様に映りますが、坂口安吾は、戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだと云います。即ち、硬直した古い道徳規範に照らせば堕落と映るのであって、敗戦によってそうした道徳規範が崩壊した結果、人間性が解放され、人間本来の姿が現れてきただけだという訳です。
大義名分や武士道や耐乏の精神といった硬直した古い道徳規範というカラクリを捨て去り、人性の正しい姿である欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う赤裸々な心を取り戻すことが、人間の復活の第一条件だと云います。その為にもカラクリに満ちた「健全なる道義」から転落することが必要であり、堕ちるべき道を正しく墜ちきることが即ち堕落です。
2.硬直した古い価値観からの解放
例えば武士道は、人間の弱点に対する防壁として存在します。「昨日の敵は今日の友」というように日本人には本来の楽天性があるので、武士道の様な規定がないと、日本人を戦闘に駆り立てるのは不可能だと彼は云います。
武士道によって醸成された価値観が無ければ、弱点を克服できません。武士道は人性や本能に対する禁止条項として存在します。
徳川幕府は赤穂浪士を切腹させることで、彼らの堕落を防ぎ、忠臣としての美談を後世まで守り抜きました。
武士道に代表される歴史的カラクリは硬直した古い価値観であり、人性即ち人が本来備えている自然の性質を抑えつけてきました。歴史的カラクリがある限り、人性の正しい開花は望めません。
堕落により歴史的カラクリから脱却できなければ、真の人間的幸福は日本に訪れません。堕落しつくして人間として再出発できなければ、再び昔日の硬直した古い価値観に捉われた欺瞞の国へ逆戻りするという理屈です。
3.堕落と孤独
真の人間的幸福を獲得する為には、堕落して人性を取り戻し、硬直した古い道徳規範から脱却して素直な心で生きていく必要があります。
但し堕落は孤独な道です。人間社会は硬直した古い道徳規範に雁字搦めにされており、堕落とは世間の常識に抵抗することだからです。即ち健全なる道義からの転落です。
当然のことながら、世間体の様な硬直した古い道徳規範に捉われ続けている周囲の人々からは見捨てられ、勘当される等、父母にまで見捨てられる可能性もあります。堕落の道に理解を得るのは容易なことではありません。世間からは後ろ指を指されます。自らを頼る以外にありません。
坂口安吾も、人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神に恵まれてはいないと述べています。孤独に耐えきれず、何物かのカラクリによって落下をくいとめずにはいられません。
人性の正しい姿とは、欲するところを素直に欲することです。ところが実際の人生においては、硬直した古い道徳規範に雁字搦めにされ、かといって孤独にも耐えられず、人性をフルに発揮するには様々なハードルがあります。
しかしながら、後悔の無い人生を願うなら、自分を雁字搦めにしている硬直した価値観を一日ぶち壊す必要があります。
『堕落論』を読みながら、ふと17世紀オランダの哲学者スピノザを思い出しました。スピノザ哲学の重要概念として、コナトゥスというものがあります。自分の存在を維持しようとする力のことで、医学でいうホメオスタシス(恒常性)の原理に近い概念です。スピノザは、これこそが物の本質であり、人間の本質もコナトゥスだと云っています。
スピノザの考える自由とは、自分に与えられている条件の下で、コナトゥスを上手く発揮でき、その人の活動能力が増大する状態のことです。例えば魚は水の中でしか生きられないので、魚にとっての自由は、水の中でそのコナトゥスを発揮して生きることです。
スピノザにとって、自由の反対は強制です。強制は本質であるコナトゥスが踏みにじられた状態だからです。
坂口安吾が否定する硬直した古い道徳規範とスピノザが否定する強制、坂口安吾の云う人性とスピノザの云うコナトゥス。何か通底するものを感じます。