菊と刀(ルース・ベネディクト)

哲学

「菊と刀」は、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが日本文化について著した本です。彼女は、アメリカが第二次世界大戦に参戦するにあたって戦争情報局に招集され、日本班チーフとなりましたが、その時に纏めた報告書を基に本書を執筆しました。
欧米人からは、不可解に見える日本人の思考回路と根本にある行動規範について、鋭い分析がなされています。いろいろと賛否はあるようですが、現在まで読み継がれている点を鑑みれば、本質をついた指摘が相応にあるということかと思います。

まとめ
1.負債の返済に追われ続ける日本人
2.世間の期待通りに生きようとする恥を重んじる日本人
3.日本人の性格の二元性

結論
日本人は恩という負債の返済と恥への対処に疲れ切っている。

1.負債の返済に追われ続ける日本人

日本人の思考が欧米人にとって不可解なのは、根本にある行動規範が、他人から受けた施しをどう返すかという「恩」と、他人からどう見られるかという「恥」に立脚しているからです。つまり、行動規範に常に他人が介在するが故に、その他人によって言動が相対的に変化し、絶対的な神や理性を基準として判断軸をなす欧米人にはそれが不可解に見えるということです。
まず、他人からの「恩」から考えてみます。
例えば、人はこの世に生を受けて以降、親から様々な便益を受けていますが、それを日本人は親への恩と受け止めますが、欧米人は無償の愛と受け止めます。恩と愛では恩返しという負債が発生するかにおいて大きく異なります。
親から恩を受けた以上、親孝行という負債が発生します。贈与は無償ではありません。お中元やお歳暮、また年賀状に至る迄、何か貰ってしまうと日本人は負債を認識し、心がざわつきます。返礼をしないと失礼にあたりますし、コミュニティ内で悪い噂が立つからです。他人から受けた施しの返し方を間違うと非常に面倒なことになります。
日本には、忠犬ハチ公や鶴の恩返し等、恩に関する物語が多いですし、恩返しは美徳として表現されます。

2.世間の期待通りに生きようとする恥を重んじる日本人

また、日本人は恥を重んじます。ベネディクトも指摘しているように、日本は恥の文化であるのに対し、欧米は罪の文化です。
欧米では、唯一絶対神を信奉するキリスト教の影響や理性を重視する文化もあり、七つの大罪の様に不道徳な行為を罪とする絶対的な判断軸があります。日本では世間が定めた道徳基準や常識に反することは恥であると考えます。つまり判断軸は世間という他者次第となります。従って世間の常識が変化すると思考が相対的に変化してしまいます。
太平洋戦争の終戦直前まで、「一億玉砕」と徹底抗戦を主張していたにも拘らず、天皇陛下が終戦を決定し玉音放送が流されると、生き恥を晒すことは恥ではなくなった為、一気に軍事的抵抗は消滅しました。戦後にレジスタンスによるゲリラ戦もありませんでした。判断軸が絶対的ではなく相対的なので、不可解且つ劇的な変化が可能です。
他者から何かをしてもらった際に、日本人は「ありがとう」ではなく「済みません」と言います。
つまり、感謝の表現ではなく謝罪の表現を使用します。「世間的に、このような便宜を図って頂くような身分では無いにも拘らず、平気で頂いてしまうような恥を晒して済みません。」ということです。恥と恩が合わさったような表現です。言外に「恥を恥のままにする訳にはいかないので、いずれ何かでお返しします。」という意味が隠されているようにも感じます。

3.日本人の性格の二元性

日本人の性格の二元性も、指摘されています。臆病なのに勇敢、従順なのに頑固といった具合です。
日本人には、幼少期は自由にのびのび育ち、青年から壮年期は仕事優先・家族優先で行動は制約され、老年期には解放され恥の意識に囚われなくなるという流れがあります。
幼年期はかなり自由であったにも拘らず、義務教育の頃から徐々に躾を施され、恥や恩の思想を繰り返しインプットされていきます。自由と束縛を連続して経験していく為に、性格の二元性が生じるという訳です。
日本人の行動規範には絶対的な価値軸はなく、あくまで「他人からどう見られるか」という恥の意識によっている為、相対的に変化してしまうことも性格の二元性を増長させているのかもしれません。
太宰治の「人間失格」は、日本の小説としては最も売れている作品だそうです。この小説は「恥の多い生涯を送って来ました。」という有名な一文で始まります。太宰治の自伝的小説と言われますが、彼のあまりにも敏感な感性が、恩という負債の返済と恥への対処に疲れ切っている日本人の心情に訴えかけるのかもしれません。

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