「無印良品」と「マトリックス」とボードリヤール

哲学

「無印良品」と映画「マトリックス」には実は共通点があります。どちらもフランスの哲学者・思想家ジャン・ボードリヤールの思想に触発されて誕生しています。
「無印良品」は、セゾングループ代表だった堤清二氏が、ボードリヤールの主著「消費社会の神話と構造」に触発され、ブランド名が付くだけで商品が値上がりする現象に疑問を持ち、企画を立ち上げたのが端緒です。「ノーブランドというブランド」として出発したので「無印」という訳です。
映画「マトリックス」は、ウォシャウスキー監督がボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」に触発されたことで誕生しました。シミュラークルとは、現実の模倣や代替物ではなく、現実を置き換えるような記号やイメージのことです。実際に現実を置き換えてしまっている仮想世界として「マトリックス」を描いており、人々はその仮想世界を真の現実として認識しています。
記号とイメージの影響の大きさについて、非常に考えさせられます。

まとめ
1.使用価値と記号としての価値
2.買うのではなく買わされている
3.現実を置き換えるような記号やイメージ

結論
畢竟するに、買物とは電気信号を入手すること。

1.使用価値と記号としての価値

そもそもですが、ブランド物の高級バッグとレジ袋は物を運ぶという機能において実は大差ありません。それだけではありません。高級車やスーパーカーと軽自動車も人や物を運ぶという機能において大差ありません。つまり使用価値はほぼ同じです。
ボードリヤールは、このように現代社会の商品において、その使用価値が非常に小さく、一方で記号としての価値が非常に大きいことを指摘しています。
つまり、消費が単に物質的なニーズを満たす行為ではなく、社会的なステータスやアイデンテイティを表現する手段となっていると論じている訳です。例えば、高級ブランドの時計を身につけることは、富や成功を象徴しています。このことをボードリヤールは「記号的消費」と言っています。重要なのは使用価値ではなく、他者との差異化を図る手段であり、差異化の為に莫大な私財を投入しているということです。

2.買うのではなく買わされている

例えば、特別な賞の表彰式のような晴れ舞台があったとして、受賞者として会場に赴くことを考えてみます。レジ袋で出かける人はまずいません。ブランド物のバッグをもって会場入りする筈です。何故なら貧乏だと思われたくないですし、かっこ悪いからです。受賞者に相応しい出で立ちで登壇したいからです。
その為に借金をしてブランド物のバッグを購入することを考えてみます。このような購入は、果たして買ったのでしょうか、それとも買わされたのでしょうか。
ボードリヤール的な解釈では、「買わされた」ということになりそうです。場に相応しい幾つかのブランド物のパターンがあり、その中から選ばされているだけかも知れません。一定のコードに服従しているとも考えられます。
豊かさを表現する為の記号消費は、世間の物差しで作られた範囲の中での強制的な消費と考えることも出来ます。

3.現実を置き換えるような記号やイメージ

シミュラークルとは、現実の模倣や代替物ではなく、現実を置き換えるような記号やイメージのことですが、記号的消費にもそうした面があります。
新聞にブランド物の一面広告がよく登場しますが、商品の広告が作り出すイメージが、実際の商品の機能や価値を超えて消費者に影響を与えるように作られています。あたかもリッチで幸福な生活を約束するアイテムであるかのようです。
イメージが強すぎて、実物を買ったらがっかりすることもあります。有名な観光地に行ったら、それ程でもなかったということもあります。
「マトリックス」を見て思うことは、現実もシミュラークルも結局のところ、電気信号のインプットという点では同じだということです。
脳は五感からの電気信号でしか世界を認識できないので、ブランド物を所有していることとブランド物を所有しているという電気信号、高級寿司店での食事と寿司の味覚の電気信号は脳にとっては無差別です。莫大な記号的消費をすることと、満足感を得られる電気信号は同じです。
もし「マトリックス」のように全ての人間が仮想世界で生きることがデフォルトになり、無限に商品のコピーが可能で容姿も思いのままになったら、記号的消費の為に労働することもなくなるかも知れません。コロナ禍のお陰で在宅勤務が一般化しましたが、その延長線上にアバターでの勤務、さらに「マトリックス」があるのかも知れません。

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