ルパン三世は何を盗んだのか

哲学

小さい頃からルパン三世が好きで、よくアニメを見ていました。彼は絵画等の芸術作品もよく盗んでいましたが、贋作も作品中に度々登場しています。
偶に疑問に思うのは、本物の芸術作品と見分けのつかない贋作も芸術ではないのかということです。人間の目で真贋の見分けがつかない芸術作品は、美を鑑賞する点において本物と無差別だからです。
有名な絵画だと何億ドルという高値で売買されることもありますが、絵画の材料はキャンパスと絵具であり原価はたかが知れています。どうしてこれだけの価値が生じるのかといえば、財産価値があると世界中の人が思っているからです。そういう意味では紙幣と似ています。一万円札という紙切れは、一万円の価値があるという虚構を全員が信じているからこそ価値があり、パイパーインフレになって虚構が崩れると無価値になります。
ルパンが盗んだのは、キャンパスと乾いた絵具の複合体です。もしルパン以外の全人類が滅びたら虚構が崩れるので、純粋な鑑賞対象としてのパーソナルな美的価値だけになります。

まとめ
1.芸術の定義は一律ではない
2.贋作やコピーが芸術ではないという根拠はない
3.自然の風景は美しいが芸術ではない

結論
美の認識は脳内の電気信号への反応である以上、本来真贋に意味はない。

1.芸術の定義は一律ではない

そもそも芸術の定義は一律ではありません。辞書的には、特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、及びその作品のことです。絵画・彫刻・建築・音楽・文学・演劇・舞踊・映画等様々な形態があります。音楽や演劇のようにルパンが盗めない芸術もあります。
マルセル・デュシャンは、便器を美術品として展示したことで知られています。作品名は「噴水(泉)」です。当時も物議を醸したようですが、美を創造・表現しようとする人間活動、及び作品と言えるかどうかは、本来パーソナルな問題です。
大勢が認めれば芸術というわけではありません。実際、ゴッホの作品は当初は誰も見向きもしませんでした。作品は世の中の評価が高まった後に芸術になった訳ではなく、ゴッホが描いた時点からずっと芸術でした。生涯で売れた絵はたった1枚。ゴッホの名が世に広まったのは彼が亡くなった後のことです。

2.贋作やコピーが芸術ではないという根拠はない

レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」は日本で公開されたことがあります。偶々チケットが手に入り、美術館まで見に行きましたが、予想通り長蛇の列で、30秒程度鑑賞して終わってしまいました。凄さを感じる暇もなかったです。
家に帰ってからパソコンで「受胎告知」の画像を拡大して隅々まで見ましたが、鑑賞の度合としては、こちらの方が余程ましでした。
結局、芸術鑑賞の満足ではなく「本物を見た」という自慢話だけが残りました。観光地の自撮り写真をSNSにアップするのと大して変わりません。
芸術鑑賞という観点からは、贋作やコピーも本物に劣後するとは思えません。もし全ての芸術作品がデジタル化され、VRで楽しめるようになったら、そちらを選ぶと思います。長蛇の列に並ぶこともなく、他の見学者を押しのけてみるストレスもありません。没入感も高いでしょう。美の認識は脳内の電気信号への反応である以上、本来真贋に意味はありません。
その点、文学は開かれた芸術だと思います。誰もがいつでも自由にアクセスできます。文学作品が何億ドルで取引されることはありません。本屋で安価で手に入ります。国宝の「源氏物語絵巻」は手に入りませんが、「源氏物語」は誰でも入手できます。

3.自然の風景は美しいが芸術ではない

芸術とは、特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、及びその作品のことなので、自然の風景はいくら美しくても芸術ではありません。人間活動でも作品でもないからです。
一方で、庭園は視覚的な表現と創造性を必要とする芸術の一形態といえます。
日本庭園は、自然を模倣し、または縮小し、自然と一体化されています。池を中心に配置し、土地の起伏を生かした築山などが作られます。また、借景という手法がよく用いられます。庭園の外の自然風景を庭園の一部として取り込むことで、庭園がより広大に見えるようにする技法です。
借景自体は自然風景ですので、芸術ではありませんが、庭園の背景に借景を取り込むことは人間の作為にあたるので芸術の構成要素です。
西洋庭園は、幾何学的なデザインを特徴とします。ヴェルサイユ宮殿の庭などが有名な例です。自然を支配し、人間の手によって整えられた美を追求します。
日本庭園の方は、芸術と自然の境界が曖昧ですが、そこが良いとも思います。

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