利己と利他

哲学

利己とは自分の利益だけを大事にして他人のことは考えないことであり、利他とは自分を犠牲にしても他人の利益を図ることとされています。
利己的過ぎても嫌われますし、利他的過ぎても損をします。結局は中庸が大事ということなのかもしれません。
そもそも絶対的な利他は存在するのでしょうか。法隆寺が所蔵する飛鳥時代の「玉虫厨子」の側面に「捨身飼虎図」が描かれています。釈迦の前世の一人、薩埵太子が飢えた虎の親子に自らの肉体を布施するという物語を描いた絵です。究極の利他ともいえますが、現実的にここ迄やる人はいません。

まとめ
1.絶対的な利他は進化論で説明できない
2.利他も究極的には利己である
3.利他的行動が道徳的とされるのは社会維持の為

結論
人間は利己と利他のベクトルがあった時だけ利他的となる。

1.絶対的な利他は進化論で説明できない

「捨身飼虎図」のように、飢えた動物に同情して命を差し出していたら、あっという間に人類は絶滅します。人類が生き延びてきたのは、他の生物を捕食してきたからであって、利己的な行動の結果です。
利己的な生物同士の命を懸けた戦いこそが進化の本質である以上、人間も本来は利己的である筈です。
問題は利他における他者とは何かということです。つまり「利する対象である他者」には何が含まれるのかということです。人間の捕食対象である動植物は含まれません。捕食している時点で生きる権利を侵害しているからです。含まれるのは恐らく他の人間と愛玩動物ぐらいでしょう。大宗の人間にとっては所属する集団の人間だけです。

2.利他も究極的には利己である

本来利己的である生物が、利他的になるのはメリットがあるからです。元々脆弱な体躯の人類が生き延びることが出来たのは、集団戦法のお陰です。社会性を高めチームワークで勝ち残ってきた訳です。我々ホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人に勝てたのは、認知革命によってダンバー数を越える大集団を形成することで人海戦術をとることが出来たからです。
逆にいえば、集団から追放されることは即ち死を意味しました。従って人間は仲間外れを極度に恐れます。
仲間外れにされない為には、適度に利他的行動をとって仲間に好かれることが重要になります。利己的だからこそ利他的に見せることが生存戦略になる訳です。
17世紀フランスの貴族でモラリストのラ・ロシュフコーは、「我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳にすぎない」という有名な箴言を残しています。
利他的行動は美徳とされますが、周囲から賞賛されることや恥をかかないこと迄計算されつくした偽装した利己的行動であることも多いことでしょう。

3.利他的行動が道徳的とされるのは社会維持の為

人間は、巨大な脳を持つが故に未熟な状態で誕生します。馬のように生まれた直後に立って歩くことはできません。未熟な状態で生まれますので、長い養育期間を必要とします。当然、猛獣等から襲われるリスクも高いですが、人間は集団内での相互扶助で生き延びてきました。相互扶助が成り立つ為には、恩を売る習性と売られた恩を返す習性が必要です。そうでなければ相互扶助がサステナブルになりません。
そうした習性をもった種が、進化の淘汰圧によって生き延びたと考えられます。これが恐らくは利他的行動のルーツです。
利他的行動や、「すべて人にせられんと思うことは人にもまたそのごとくせよ」といった「黄金律」は、やがて道徳として昇華していったのだと思います。
「陰徳」という言葉があります。世間に知られない善行のことです。また、「陰徳あれば陽報あり」ともいいます。陰徳を積んだものには必ずよい報いがはっきりと現れることです。
穿った見方かも知れませんが、周囲にアピールするように善行を施すよりも、陰徳が周囲に知れ渡った方が、賞賛される効果は大きいでしょう。そうでなければ、陰徳の結果として陽報が現れる筈がありません。本当の策士はここ迄計算するでしょう。ラ・ロシュフコーではありませんが、「我々の利他は、ほとんどの場合、偽装した利己にすぎない」のかもしれません。
人間は利己と利他のベクトルがあった時だけ利他的となります。
数多の聖人がいますが、後に聖人と呼ばれることを全く期待していなかった聖人はどれだけいたか疑問です。

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