西田俊英の「不死鳥」

2024年6月に茨城県天心記念五浦美術館に行ってきました。五浦海岸は、明治時代に日本美術界の旧弊に抗う岡倉天心の指導の下、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山等が活躍した歴史的な地です。日本画壇の歴史を学べる展示も良かったですが、日本画家・西田俊英の企画展も素晴らしかったです。
なかでも、1年間、屋久島に滞在して描き始めた「不死鳥」という作品は圧巻でした。現在も制作中とのことでしたが、最終的には全長90メートルの大作になるそうです。企画展では完成した50メートル位の部分が展示されていました。目に焼き付けるように何度も往復して鑑賞しました。完成したら是非また鑑賞したいと思います。

まとめ
1.屋久杉の特徴
2.生命の象徴・不死鳥
3.豊臣秀吉と屋久杉

結論
今こそ森の働哭に耳を傾けるべきとき。

1.屋久杉の特徴

「不死鳥」は屋久島をめぐる悠久の物語を描く壮大な作品ですが、屋久杉が極めて神秘的に描かれているのが印象的でした。
屋久島にある杉のなかで、樹齢千年以上の杉のことを「屋久杉」、樹齢千年未満の若い杉のことを「小杉」と言います。本州の杉の寿命はせいぜい数百年だそうですが、屋久杉は千年以上生き続けてきました。
屋久杉が長寿であることは、屋久島の厳しい環境に起因しています。そもそも屋久島全体が花崗岩でできており、樹木もその岩磐の上に立っているうえに、「ひと月に35日雨が降る」と言われる程の多雨が表層土壌とともに栄養分を流してしまいます。
このような極めて過酷な環境では、樹木の成長が極めて遅くなる為、年輪が細かくなり木目が詰まっています。年輪が1センチ成長するのに20年も掛かるそうですが、逆にそのことが凝縮された樹脂分による腐りにくい幹を形作り、長寿の屋久杉が誕生した理由となっています。
過酷な環境に長期間耐え続けたが故の長寿です。

2.生命の象徴・不死鳥

本作品では、生命の源である一粒の水滴に始まり、そこに集う様々な生き物たちが繊細に描かれていました。また、生命の象徴として巨大な不死鳥が描かれており、これまた圧巻でした。
絵巻物のように章立てがなされており、「第一章:生命の根源」、「第二章:太古からの森」、「第三章:森の慟哭」と続いていきます。
当初屋久杉は神木や神の化身として崇められ、製材のために伐採されることは殆どありませんでした。しかしながら江戸時代に屋久島を統治していた薩摩藩は、屋久島の土地が稲作に適していなかった為、年貢として島民に屋久杉の屋根板の納入を課すようになります。そうして神聖な森は伐採されていきます。「第三章:森の慟哭」には苦難の時代が描かれています。

3.豊臣秀吉と屋久杉

縄文杉は最大級の屋久杉です。諸説ありますが推定樹齢は三千年以上とされています。かつては縄文杉の様な巨木が他にもありましたが、豊臣秀吉の命令により京都の方広寺大仏殿(京の大仏)造営の為に伐採されてしまいました。伐採例としてウィルソン株という巨大な切株が有名です。大仏は当初銅造で計画されていましたが、木造に改められました。既に老いていた秀吉が、自身の生前での落慶に拘り、工期短縮を図ったのが理由との説があります。
秀吉が諸大名に大仏殿の建材に適した巨木材を提供するよう命じた為、島津家の屋久杉伐採以外でも、徳川家康が富士山麓の巨木を伐採したりしました。
ところが、その後に起きた慶長伏見地震により、開眼前の大仏は損壊してしまいます。銅造ではなく、木造としたことが裏目に出ました。秀吉は大仏が損壊したことに大変憤り、大仏の眉間に矢を放ったという逸話も残っています。このような不遜な態度を取ったのは、秀吉が自らの権力を誇示する為の道具としか見做していなかったからかも知れません。
千年以上かけて成長した巨木の顛末としては悲しいものがあります。最後は権力者の承認欲求に殉じるかたちとなってしまいました。
「不死鳥」をじっと鑑賞していると、作者を介して屋久杉から流れ込んだ太古からの生命の営みが、じんわりと溢れ出てくるようで感動に包まれます。
悠久の時間のなかで紡がれた生命の循環を、刹那に生きる何も知らない人間が断ち切ることは僭越ですらあります。

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