純粋持続と自由(ベルクソン)

哲学

若い頃は時間が無限にあるように感じて、随分と怠惰に過ごしていたような気もします。半世紀以上も生きてくると、ふとした時に時間とは一体何なのかについて考える場面が増えてきたように思います。
病気や老いや死というものをリアルに感じるようになったからかも知れません。寿命を延ばすには健康に留意する必要がありますが、延びた寿命をどうすべきなのかについては必ずしも明確なイメージがある訳ではありません。漫然と過ごす時間が多少増えたところで、あまり意味が無いようにも思います。

まとめ
1.一般的な時間
2.純粋持続という時間
3.ベルクソンの考える自由

結論
究極の理想は、死ぬまで没頭し続けること。

1.一般的な時間

一般的には、時間は過去・現在・未来という一方向に、一定の速度で淡々と進んでいくものと理解されています。過去の後に現在があり、その後に未来があるという順番は覆ることはありません。過去に戻って人生をやり直すことは出来ません。タイムマシンが存在する証拠も残念ながらありません。
時間は、数直線上の点の如く移動し、仕事でもプライベートでも予定が数直線上を埋めていくイメージです。受動的に決まる予定も沢山あります。
また、時間の流れは止めることができませんし、自分の意志で速度を変えることもできません。誰にとっても1日は等しく24時間です。これが一般的な理解だと思います。

2.純粋持続という時間

フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、こうした考え方を否定します。ベルクソンによれば、人間にとっての時間とは、本来は計測できない主観的なものであるといいます。人間が意識で感じる時間は、決して過去・現在・未来に区切れるものではなく、流れるような「純粋持続」だと云います。「純粋持続」とは、意識の中に次々と現れる感情や記憶が、お互いに溶け合って、流れていくような時間です。なかなか難しいですね。
例えば、好きな音楽を聞いているときや面白い本を読んでいる時には、脳裏に様々な過去の出来事が去来しますし、未来への妄想も次々と湧き出てきます。
その時には現在という区分された時間を生きている訳ではなく、過去や未来が溶け合い、渾然一体となって流れ込んでくるような、主観的な時間を生きているという感覚になります。
「純粋持続」とは、個々人の意識の中で生じる独自の経験であり、過去・現在・未来が区別されずに統合された流れとして捉えられます。逆向きにしたり、こま切れにしたりすることができない代物です。流れの連続ですので、数学的に測定可能なものでもありません。

3.ベルクソンの考える自由

更にベルクソンは、「純粋持続」が自由の源泉だと云います。ベルクソンの考える自由とは、一般的な自由と少し異なります。
通常、我々が自由という時には、選択の自由であることが多いです。つまり他からの強制や支配を受けないで、自らの意志に従って道を選択するということです。
しかし道を選択するということは、分岐点があるということですので、過去・現在・未来という数学的に計測できる時空間にいるということが前提になっています。
「純粋持続」は過去・現在・未来が渾然一体となった意識のなかでの時間ですので、ベルクソンの自由についても、数学的な時空間での選択の自由とは異なります。
「純粋持続」という流れの質が高いことであり、端的に言えば没頭していること、ゾーンに入っていることだと思います。何かに没頭している時間は、自分の能力が解放され充実した自由な時間だと言えます。
究極の理想は、死ぬまで没頭し続けることなのかも知れません。
江戸時代の天才絵師・葛飾北斎は、ありとあらゆるものを描き尽くそうとしました。好奇心旺盛で西洋由来の絵画技術にも大いに興味を示したそうです。
晩年には、画狂老人卍と号し88歳で亡くなりましたが、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」(もし天命があと5年あったら、本当の絵師になれただろう)との遺言を残したと伝えられます。
まさに死ぬまで絵に没頭し続けた人生だったのでしょう。そうでなければ「画狂老人卍」とは名乗らないと思います。人生の殆どが「純粋持続」だったのかも知れません。

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