エピクロス派の死生観と剝奪説

哲学

生物にとって絶対的に存在する未来、それは死です。一般的には死は悪いものであると考えられています。古代から多くの賢人たちが死について考察してきましたが、死が悪いのかどうかについては、未だに万人が納得する結論は出ていません。
それだけ死とは難しい問題です。なにしろ今現在生存している人類で、死んだことのある人間は皆無だからです。伝説や物語を除けば、人類史上二度死んだ人はいません。

まとめ
1.来世は無いという前提で考える
2.死は良くも悪くもないとしたエピクロス派
3.死が悪いのは生の善き点を剥奪するからとしたネーゲル

結論
死は悪いが、永遠の生も恐らく耐え難い。

1.来世は無いという前提で考える

死について考えるに際して、一つ大事な前提に立つ必要があります。来世や輪廻転生は無いということです。来世(天国・地獄・黄泉)があると仮定すると、体は死ぬが魂は死なない、乃至は来世での生活が継続することになってしまいますので、死に関する考察が複雑になってしまいます。また、今現在生存している人類で、死んだことのある人間は皆無ですので、来世を経験したことのある人間はいません。従って、来世の存在は実証されていません。輪廻転生に関しても、前世の記憶を保持した状態で転生した人間の存在は、確認されていません。
来世は無い、死とは全ての終わりという前提に立つことを終焉テーゼと言います。

2.死は良くも悪くもないとしたエピクロス派

古代ギリシャの哲学者エピクロスは、そもそも死は悪いものではないと主張しました。その論拠はこうです。
我々が生存する限り、死は現に存在せず、死が現に存在する時には、もはや我々は存在しません。従って、死は生きている者にも、既に死んだ者にも、関わりが無いことになります。何故なら、生きている者には、死は現に存在しないのであり、他方、死んだ者はもはや存在しないからです。
ファクトとしては確かにエピクロスの言う通りなのですが、死は悪くないと断じてしまうには、何か釈然としないものがあります。
例えば、戦争・殺人・病気で死んでしまった場合でも死は悪くないとしてしまうのは、心情的には受け入れ難い感じがします。極論すれば、死刑がペナルティにならなくなってしまいます。

3.死が悪いのは生の善き点を剥奪するからとしたネーゲル

その疑問に答えたのが、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルです。彼の最も有名な著作は「コウモリであるとはどのようなことか」で、コウモリの経験は人間には完全には理解できないと主張していますが、死についても「剥奪説」という興味深い説を唱えています。
例えば、戦争・殺人・病気で若くして死んでしまった場合、生きていれば幸せな人生を送っていたかも知れません。死はそうした未来の可能性を完全に奪ってしまいます。死が悪いという主張は、このように可能性の剥奪から基礎づけることができる、というのがネーグルの剥奪説の内容です。
一般的にはエピクロスの説よりも受け入れやすい気がします。我々には死という絶対的な未来がある一方で、今死ぬのは悪いことだ、或いは死にたくないと考えるのは、未来の可能性が剥奪されるからだという主張には説得力があります。
しかしながら、この説も万能ではありません。
未来の可能性が剥奪されるといっても、その可能性は良いことだけではないからです。悪いことが起きる可能性も当然あります。
例えば、平均余命が30年として、毎年+10ポイントの良いことが起きそうな場合は、今死亡すれば、10×30年で300ポイントを失うことになりますが、どう考えても明るい未来が展望できない場合、例えば毎年▲10ポイントの苦痛が見込まれる場合は、累計▲300ポイントの苦痛に耐えなければなりません。
将来よりも現在を重視する傾向のことを「現在志向バイアス」といいます。このバイアスは、もしかしたら人間の心理的な防衛機能なのかも知れません。頭脳明晰な人間が、緻密な計算の結果、絶望的な未来を予見してしまったら生きていけません。未来を忘れるか軽視するような楽観性が必要です。17世紀フランスのモラリストであるラ・ロシュフコーは、「太陽をじっと見つめることはできない。死もそのとおり。」という箴言を残しています。直視して悲観しすぎるのも良くありません。
また、剥奪説の場合、平均余命10年の人と平均余命50年の人で、死に関する悪の度合が相対的になってしまうという問題もあります。
医療とテクノロジーの進歩で、永遠の命が実現する可能性もあるかもしれませんが、恐らくは500年以内にやりたいことを全てやり尽くしてしまうでしょう。後はニーチェの永劫回帰のように無限のリピートになります。死は確かに悪いですが、永遠の生も恐らく耐え難いでしょう。

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