蒟蒻問答(こんにゃく問答)

文学

「蒟蒻問答」という古典落語があります。
上州のとある古寺では和尚が亡くなり後を継ぐ者がいませんでした。心配した村の世話人、蒟蒻屋の六兵衛は、道楽者の八五郎に和尚にでもなってみないかと持ち掛けます。八五郎は二つ返事で承知します。
ところが、ある日、越前永平寺の僧である托善が問答を申し込んできました。困った八五郎。結局、蒟蒻屋の六兵衛が代わりに問答の相手をすることになり、托善との対決となります。問答が始まりましたが、六兵衛は黙ったままです。相手の托善はこれを無言の行と勘違いします。
まず托善が両手の人差し指と親指で胸のあたりに丸い輪を作りました。それを見た六兵衛は、目を見開き両手で大きな輪を描くと、托善は両手を開き十本の指を前に突き出します。それを見た六兵衛は五本指を突き出しました。今度は托善が三本指を突き出すと、六兵衛は「あかんべぇ」をしました。その後に托善は六兵衛にひれ伏して逃げ出してしまいます。
八五郎が托善の後を追って問答の勝負はどうなったのか聞いてみると、托善は自分の負けだと言います。托善の理解した無言の問答は以下の通りでした。
「始めに『和尚のご胸中は』と尋ねたところ、『大海のごとし』とのお答え。二度目は『十方世界は』と聞けば『五戒で保つ』との仰せ。三度目に『三尊の弥陀は』と問えば『目の下にあり』との答え。とうてい拙僧のような者が敵う相手ではない。」と悟り逃げ出したとのこと。
一方で、六兵衛の方の理解は以下の通りでした。
「俺が本当は蒟蒻屋だと相手が分かったものだから、お前のとこの蒟蒻はこんなもんだと小さな丸をこしらえてきた。だから俺のとこの蒟蒻はこんなに大きいのだと手を広げた。すると、十丁で幾らだって値段を聞くものだから、五百だと言うと、三百に負けろというので、あかんべえをした。」

まとめ
1.どんな物事からも学びはある
2.サラリーマン社会にもある蒟蒻問答
3.反面教師からの学びもある

結論
嫌いな人間とは距離をおきつつも、ヒューマン・ウォッチングする。

1.どんな物事からも学びはある

私は落語ファンではないですが、この話は非常に興味深いと思いました。というのは、こういう勘違いを実生活でよく見かけるからです。
何はともあれ、蒟蒻屋の六兵衛の意に反して、永平寺の僧である托善は深い学びを得たことは相違ありません。
哲学者フランシス・ベーコンは、人間の認識を歪める四つの偏見や先入観を「四つのイドラ」と呼びましたが、その中に「劇場のイドラ」があります。有名人や権威者の意見を盲目的に信じる傾向です。多くの人々は権威者の意見を盲目的に信じがちです。
有名人や権威者は、ただ平凡な感想を述べているだけなのに、それを聴いた聴衆が、勝手に深遠な含意を感じ取り、格言にまで昇華させてしまうことがあります。
何でもかんでも有名人や権威者を盲信するのは問題ですが、何でもないことから勝手に想像して思考を深める蒟蒻問答的な学びは有だと思います。本人が有名人や権威者の言葉から勝手に紡ぎ出した思考だからです。元から自分の脳内にあったことを有名人や権威者の言葉を触媒にして現出させたからです。学びとは存外こんなものなのかもしれません。

2.サラリーマン社会にもある蒟蒻問答

サラリーマン社会にも似たようなことはよくあります。例えばとある案件で社長にプレゼンに入った場合です。社長はごく平凡且つ素朴な質問をしただけなのですが、打合せが終わった後に「社長って本当に頭いいよな。どこ迄深く考えているんだろうな。底がしれないよ。」と真顔でいう人がいます。普段からその社長の人となりを知っている人からすると、おかしくて仕方がないのですが、思わず同調圧力に抗しきれず、「本当ですよね。恐ろしい位切れますよね。」とか言ってしまいます。こうした話に尾鰭が付いて、いつしかレジェンドに昇華していることがよくあります。
斯様なことは聞かれたくないことを偶々質問されてしまった場合によく起こります。社長は会社の全業務に精通している訳ではありませんので、事務局レベルで常識化していることを素朴且つ無邪気に聞いてきます。

3.反面教師からの学びもある

蒟蒻問答のような勝手な学びもありますが、反面教師からの学びもあります。
孔子は「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」と述べましたが、反面教師からの学びは、「己の欲せざるところ」から始まるからです。但し、己だけが欲していないのかについては、注意が必要です。
「反面教師」はもともと毛沢東の言葉です。当初は「反面教師」を他の者を正しい道へと導くための教材にすることを提唱していましたが、その後の文化大革命では徹底弾圧しました。
「嫌いな人間」を「悪い人間」と同一視した結果です。「嫌い=悪い」ではありません。嫌いな人間とは距離をおきつつも、ヒューマン・ウォッチングしつつ学ぶのが程よいスタンスかもしれません。
カフカの「変身」やカミュの「異邦人」等の文学作品には、ちょっと極端な設定や人物が登場します。映画・マンガ・アニメも然りです。これらは極端だからこそ、純度の高い思考実験を人間にぶつけてきます。心が揺らぎ、そして学びが起こります。これらも広義のヒューマン・ウォッチングです。

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