危害の原理(ジョン・スチュアート・ミル)

哲学

「他人に迷惑をかけなければ何をしても良いのか?」という問題は、実は非常に難しい問題です。
イギリスの功利主義者ミルは、主著である「自由論」のなかで、「危害の原理」を提案しています。「危害の原理」とは、「人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだ」という原理です。

まとめ
1.功利主義における自由とは危害の原理で定義される
2.危害の原理から派生して愚行権が考えられた
3.他者への危害を定義するのは難しい

結論
現実社会で万人が納得する危害の原理を決めるのは難しい。活路は仮想現実にある。

1.功利主義における自由とは危害の原理で定義される

「危害の原則」は、言い方を変えれば、個々人の行動が他人に直接的な害を及ぼさない限り、その行動を政府が規制することは許されないというものです。この思想の支持者はリバタリアンと言われます。
功利主義といえば、「最大多数の最大幸福」で有名ですが、個々人の幸福を最大化する為には、個々人の自由が最大限に尊重され、他人の幸福を侵害しないことが重要になります。
例えば、言論の自由は大切ですが、その言論が他人に対する誹謗中傷となる場合には、その自由は制限されるべきだということになります。

2.危害の原理から派生して愚行権が考えられた

「危害の原理」は、一見すると至極まっとうな原理のような気もしますが、より深く考えると色々な論点を孕んでいます。
例えば、ミル自身も「自由論」のなかで、「愚行権」という変わった権利について言及しています。「愚行権」とは、一言でいうと「他者から見て愚かなことをするのは、個人の自由である」という考え方です。
例えば、一般人が殆ど全財産を投じて、カリスマ的アーティストの遺品を購入するような場合が考えられます。外部から見れば、無謀な行為に映りますし愚行との誹りを受けるかもしれませんが、本人にとって幸福であれば、その行為をとることは自由であるということです。
彼自身のみ関わる事柄こそが、個性の本来の活動領域であって、この領域では他人の注意や警告を無視して犯すおそれのある誤りより、他人が幸福と見なすものを強要する実害のほうが大きいという考え方です。

3.他者への危害を定義するのは難しい

飲酒や喫煙のレベルであれば、危害の原理に従って自由にすればよいと思いますが、売春やドラッグとなると幾ら他人への危害に該当しなくても、自由とすることに心理的な抵抗感を感じる方も多いと思います。
売春が一般化したり、ドラッグが蔓延すると風紀が乱れ治安も悪化するかもしれません。ある意味で公害のような外部不経済が発生するかもしれません。
しかしながら、自由を主張するリバタリアンのなかには、これらの合法化を支持する人々もいます。
パラハラやセクハラもエスカレートしたら困ります。最近はハラスメントを受ける側の心情が重視される傾向がありますが、本人が他者への危害と思っていないことがハラスメントの原因でもあります。
個々人で、どこまでを他者への危害と見做すかはことなりますし、国や民族によっても倫理観が異なる以上、危害への許容度も異なります。
現実社会において、世界中で通用する統一的な危害の原理を定義するのは、なかなか難しいことです。
現実社会から離れた仮想現実のなかでは、同じ危害の原理を採用する人間だけのコミュニティが形成できるかもしれません。
VRを駆使したRPGに没入していると、世間一般的には現実逃避と揶揄されることが多いかもしれません。世間の物差しでは、仮想現実での幸福を追求することは、まだまだ異端なので、現実逃避と見做されてしまいます。
しかしながら、仮想現実の可能性は無限大です。地球という物理的な制約に縛られず、国境もありません。仮想現実での幸福追求が一般的になる為には、抜本的に思考回路を転換する必要があるかもしれませんが、来世という虚構を生み出した人間には、本来造作もないはずです。
現実よりもアニメに没入している人々も多数存在しますし、仮想現実ライフが、寧ろ通常の生活として市民権を得る下地は既にあります。

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