シーシュポスの神話と不条理

哲学

辞書的にいえば、不条理とは「筋が通らないこと。道理が立たないこと」です。
不慮の事故、病気、災害、戦争などで親しい人が死んだり、理不尽な仕打ちを受けたりした際には、その運命に理由を求めてしまいます。「どうして自分だけこんな目にあうのだ」と。しかしながら答えはなかなか見つかりません。
不条理を考察した作家といえばカミュが有名です。不条理について「シーシュポスの神話」というエッセイを残しています。

まとめ
1.実際の世界は無意味であり人間の理解を超えている
2.不条理には3つの対処がある
3.不条理に反抗することが人間存在の意義
結論
・不条理な状態こそデフォルトであり、そのことを受け入れて前進する

1.実際の世界は無意味であり人間の理解を超えている

人間は世界を理解し、その中に意味や目的を見つけようとします。しかし、カミュによれば、世界自体は無意味であり、人間の理解を遥かに超えています。
したがって、我々が世界に意味を見つけようとする試みと、世界がその意味を提供しないという事実との間には基本的な不一致、つまり「不条理」が生じます。
宇宙に存在する万物は自然法則に従っています。
一方で人間の五感の機能には制約がありますので、認識出来ないものは数多あります。眼は可視光線しか見えないので、X線は見えません。耳は超音波を聞くことができません。3次元空間以上は認識出来ません。また、宇宙のエネルギー組成の大部分を占めるダークマター・ダークエネルギーを感じることも出来ません。
世界の全ては分かりませんし、全ての自然法則も知り得ません。
不条理な事柄も、唯物論的にいえば、ビッグバン以降に発生した無数の因果関係の結果です。

2.不条理には3つの対処がある

カミュによれば、不条理には3つの対処があります。「自殺」「哲学的自殺」「反抗」です。
自殺とは、人生が不条理であると認識し、そのことに絶望し反抗を止めて自己の命を絶つことです。
哲学的自殺とは、神や絶対的な道徳規範、または宗教や政治的イデオロギーなどにすがり、それらを通じて自身の存在に意味を見いだそうとする行為です。
例えば「現世でどんなに不条理な目にあっても、神からの試練と受け止め、神への信仰を守り続ければ、来世で天国に行ける」という考え方もカミュ的には哲学的自殺にあたるのかもしれません。
反抗とは、不条理な現実を認識し、それに対して積極的に行動を起こし、自己の存在を主張することです。

3.不条理に反抗することが人間存在の意義

「自殺」「哲学的自殺」「反抗」のうち、カミュが出した答えは「反抗」です。
カミュは、「シーシュポスの神話」の中で、不条理な人生を受け入れて生きることについて示しました。
人間の王シーシュボスはギリシャの神々を欺いた罪で、巨大な岩を山頂まで永遠に押し上げる罰を科されました。シーシュボスは神々の言いつけ通りに山頂まで岩を押し上げますが、山頂に到着した瞬間に岩がまた麓まで転がり落ちてしまいます。
日本の「賽の河原」の話に似ています。賽の河原は、人が死後、冥土へ渡る前の地点とされる河原です。親よりも先に死亡した子供たちが、親不孝の罰として苦を受ける場とされています。子供たちは親の供養のために小石を積んで塔を作ろうとしますが、どれだけ積んでも大鬼が来てすぐにこれを壊します。そのため、子供たちは永遠に石を積み続ける運命にあります。何れの話も果てしない徒労の話です。
カミュは、シーシュポスがこの永遠に続く無駄な努力を受け入れ、それに対して反抗することで、自分の生を自身で定義し、自由を見つけることができると述べています。
世界は無意味であり、自己の価値観に基づいて生きるべきことを提唱している点は、ニーチエとカミュの共通点かもしれません。
そもそもですが、人間は、いつか死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続けている訳です。宇宙も最終的には終焉を迎えますので、全ては無に帰することになります。
不条理な状態こそデフォルトであり、そのことを受け入れて前進するしかありません。
シーシュボスは神から不条理な永遠の罰を受けましたが、流石の神もシーシュポスの思考を止めることは出来ません。永遠の罰をどう解釈するかはシーシュポスの自由です。
人間の感情などお構いなしに、宇宙は自然法則に従って淡々と流転するだけです。

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