「四十八茶百鼠」とは、江戸時代に沢山の茶色や鼠色が存在したことを表す言葉です。四十八や百というのは種類が多いことを形容する表現であり、実際には更に多くの種類の茶色や鼠色が存在したと云われています。
一般的には茶色も鼠色も明度が低く、彩度も低い地味な色と言えます。このような地味な色に数多くのバリエーションが誕生したのには、時代背景が深く関係しています。
1.四十八茶百鼠の背景
日本の歴史を辿ると、度々奢侈禁止令が出されていますが、江戸時代に入ってからの奢侈禁止令は群を抜いています。こうした奢侈禁止令の極致が老中水野忠邦による天保の改革の際の一連の禁令です。
江戸幕府は庶民の着物の色や柄や生地に様々な規制を設けましたが、色は「茶色」「鼠色」「藍色」のみに限定されていました。
町人たちは、限定された色の範囲内で、「路考茶」「団十郎茶」「梅鼠」「鳩羽鼠」など、微妙な染め分けをした新色を続々と開発していきました。地味な色調の中でも差異を追求したわけです。町人たちの反骨精神と執念を感じます。
2.人間の差異に対する飽くなき執念
フランスの哲学者・思想家ジャン・ボードリヤールは、著書「消費社会の神話と構造」で、消費とは記号の交換だと述べました。他者との差異を表す記号の交換です。
千円の腕時計と百万円の腕時計は、時間を知るという機能において大差ありませんが、百万円の腕時計を敢えて購入するのはブランドに込められた記号を消費しようと考えるからです。それこそ機能的に満足のいくモノが溢れている現在においても、消費が加速する理由です。まだ使えるのに捨ててしまい、大枚をはたいて新しいモノを求める理由です。商品としての価値は、他の商品の持つ記号との差異によって生まれるからです。
記号という商品の価値が、本来の使用価値以上に効力を持つ社会を、ボードリヤールは「消費社会」と呼んでいます。
この様にモノを買う行為は、他者との差異をつけ個人のアイデンティティを社会の中に定位させることです。差異をつけることは社会的生物である人類の本能といっても過言ではありません。所属する社会のなかで注目される差異のあることが、生物の究極の目的である生存と生殖に有利だからです。
茶色と鼠色という極めて限定された色調においてさえ極限まで差異を追求したという点において、「四十八茶百鼠」には本能の持つ逞しさを感じます。
3.粋な差異と華美な差異
「四十八茶百鼠」は、江戸幕府によって色が限定され、庶民の創意工夫が一定方向にフォーカスされたことで深度ある文化として結実したのだと思います。幕府による限定がなければ、町人文化はひたすら華美な方向に向かったかもしれません。どんな環境であれ、差異の追求は止まりません。
一方で、差異の表現は時代と共に変わってきているようにも感じます。ひと昔前は、高級ブランドや高級車といった分かり易い差異だけが差異的消費であったと思います。
第二次世界大戦での敗戦から高度経済成長期までは、「三種の神器」を求めることが差異であり、より便利でより華美であるモノを持つことがシンプルな差異の表現でした。テレビ・冷蔵庫・洗濯機のある家庭は、ない家庭から羨望の眼差しで見られていましたし、羨望の眼差しで見られることに優越感がありました。差異はシンプルでした。
現在は少し事情が違います。高級ブランドを求める価値観が残存する一方で、ミニマリストという生き方やエコロジーに価値を見出して差異を表現する人々も増えてきました。若い世代では消費に対する固定観念が薄れ、世間の価値観やステータスから一歩引いたスタンスで、欲しい物しか買わないという消費行動をとる人も増えているように感じます。
それにつれて、差異のあり方も多様化しています。金銀といったシンプルに華美な色よりも、「路考茶」や「団十郎茶」を好み、個性ある差異を追求する人もいるでしょう。
節度をわきまえた個性の光る差異は、何だか粋な感じがします。